二の二
数日後のある日、甚助を訪ねてみようと思いついたのは、なにも非番の暇を持て余していたからというだけではなく、先の別れの段にぞんざいに扱って不快にさせたことへの悔恨もあったからだった。それに、
――甚助のいう疑惑をたどっていけば、俺の心も少し楽になるのではないか。
そんな気がしていた。甚助に声をかけられて以来、心の底からわずかずつ、ゆっくりと膨らんできた気持ちだった。疑惑をたどってたどりつく先に何があるのかはまったくわからない。ただ、そこにたどりつけば、数年来抱え続けてきた未練に終止符を打てるような気がしていた。
佐保に逃げられてから今日まで、新次郎の時間は止まっていた。
時が経てばやわらぐと期待していた苦痛は、なおさら深く重くなり新次郎の心に苦くまとわりついているような四年間だった。嫁をとる気にもなれずにいた。
高尾村までは、城下から一里半、新次郎は急ぐでもなく散策するような足どりで、田畑の広がる風景を眺めながらのんびりと歩いた。
稲はもうすっかり刈り取られ、稲架に干された藁が穏やかな陽にむされてこうばしい香りを放っていた。
村に着いて、目についた農夫に甚助の家を訊くと、その老人は首にかけた手ぬぐいで顔をふきながら、面倒そうに指をさした。
老人の指の先にあるのは、先日の甚助のむさくるしい風体からは想像できないほどの、大きな百姓家であった。いかにもそれなりの土地を所有している大百姓の家で、考えてみれば隣村の名主の娘を嫁にもらおうとしていたのだから、彼自身もそこそこの家格でなければつり合わないわけだ。
おとないをつげると、甚助の妹であろうか、歳の頃は十四、五の肌が甚助に負けず劣らず浅黒く、目鼻立ちのくっきりとした娘が出てきて、突如おとずれた侍に不審と狼狽の入り混じった顔で、それでも無理に顔に笑顔を浮かべていた。襷でたくしあげた袖から見えるきめの細かな肌をした二の腕に、日が当たって妙に目にまぶしく思えた。甚助はいるか、と娘に訊くと、いま野良仕事に出ている、という。
教えられた畑に向かうと、甚助がしきりに野菜の手入れをしているのが目に入った。腰をかがめて、ちまちまと雑草を抜いたり、虫を取ったりしているようだ。
「この畑はなにがとれるかね」
新次郎は、その垢と土で汚れた背中に声をかけた。
振り向いた甚助はちょっと驚いた様子だったが、
「蕪だがん」
見てわからないのか、という調子で、不愛想でくぐもった声で答えた。
ちょっとした挨拶のつもりだったんだが、と出鼻をくじかれた思いで苦笑しながら、さて、その先は何を話そうかと思案した。
「なんじゃぁ、おらの話、調べてくれる気になりましただか」
甚助は、土の匂いのただようような強い土地の訛りで喋った。先日新次郎に話しかけたことで肩の力が抜けたのか、もう知人に話すような具合であった。
「まあそんなところだ」
声を聞いているのかいないのか、甚助は蕪をひとつ引っこ抜くと、それを手に近づいてきて、
「ちょっとはええだが、持ってったってくだせえ」
「いや、これはすまない」
「で、なにをどう調べるか、算段はございますだか」
「ん、いや、ともかくお前さんに会ってから、と思ってな」
「はあ」と甚助は落胆の色を露骨に顔に浮かべた。
「なにか、わしに伝え忘れたことなどはないかの」
「うう」とうなりながら甚助は西の山並みをしばらく眺めて、「前も話したと思うだが、おら、おまちが死んだとき、棺桶のなかを見せてくれなかったのがどうしても胸にひっかかっとるんで」
「しかし、お前さんは向こうの家にすればあかの他人だろう。棺桶のなかをそう簡単にみせてくれるものでもないんじゃないかな」
「いや、それとはちょっと違う気がしましただ。どこがどうというとうまく言えませんが、変な具合に庄兵衛さん……、おまちのおっとうが棺桶に近づかせなかったんだ」
「ふうむ、そう言われると気になるな。犬沢村だったか。おまちの家はここから遠いのか」
「半里ばかりだ」
「ちょっと行って話を聞いてみるか」
「お、おらもついていっていいだか」
「ま、かまわんだろう」
犬沢までの道中、ふたりともあまりお喋りなたちでもないので、ほとんど会話らしい会話もなかったが、
「甚助、お前さん、おまちという娘とはよく会ったり、話したりしていたのかい」
「ええ、時々でしたが」
「そうか。俺はほとんど会ったことがなかったんだ、佐保に」
話に興味があるのかないのか、甚助はあいづちすら打たずに新次郎のちょっと後をついてくる。
「叔父が、お見合いのような席を用意してくれてな。そのときちょっと話しただけだった」
「それで、惚れてまったのか」
「さあ、そこのところは、いまだによくわからないんだ。この人と所帯を持つのだ、という気すらわかなかったな」
そうだ、俺はあの人を好いていたわけではなかったのかもしれない。しかし、逃げられて俺の心に空いた空洞は、そう簡単に埋められるほど浅くも狭くもなかった。とすると、やはり俺はあの人を好いていたのだろうか、自分でも気がつかないうちに――。
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