二の一
「なあおい、以前馬崎家老の屋敷に、おまちという下女がいたのを知ってるか」
と新次郎が同僚の磯村文之助に訊いたのは、書類整理の合間の、ほんの雑談程度の気分であった。
磯村は、新次郎のひとつ下だから二十五であるが、歳に不釣り合いの童顔をなでながら、
「さあ、知るわけがない」
とぼそりと言った。にべもない言い方であった。
「ご家老の娘御と同時期になくなったそうだ」
「へえ、だからどうした」
「いなやに、お前は顔が広いからな。馬崎様のところの家士のひとりやふたり、知り合いがいるんじゃないかと思ってな」
「いや、いないな。そんな醜聞にもつながりそうもない話に興味も湧かんしな。ははん、そうか、馬崎家老と言うと佐保殿がらみだな。佐保殿が姿を消したのも、馬崎家老の娘が亡くなったのと同時期だったな。なんだおぬし、秋のうら寂しさに流されて、昔の婚約者のことを思い出したか」
「いや、そういうわけでは」
「わびしいの、金森。昔のことはいい加減忘れて、はよう嫁を貰え」
「おぬしに言われたくはない」
「俺は、もう少し独り身を楽しんでいたいだけだ。時がくれば嫁のひとりやふたり、すぐに貰ってみせる」
「そうだといいな」
そうして、また新次郎は目を書類に戻した。
昨日甚助に会ってから、心の中で当時の記憶が次々に現れては消え、なにかずっと落ち着かない気分が続いていた。
お願いします、お願いしますと懇願していた甚助の声が、なにかの拍子に耳の奥によみがえってくるし、出奔した佐保の、ほんの一度だけ会った時に見た笑顔が瞼の裏でちらちらするし、短い会話の間に耳に触れた彼女のおだやかな声が耳の奥をくすぐるのだった。もう過去の話だ、忘れてしまえばいい、という理性的な自分が心のどこかでいいきかせるように諭してきたりもするのだが、そういう嫌な記憶を忘却の彼方へと放り投げてしまいたいという気持ちとはうらはらに、忘れてはいけない、甚助の依頼をきっかけに過去の嫌な記憶を払拭するためになにかしなくてはならない、という能動的な自分も心のどこかで騒ぎ続けるのであった。
佐保の失踪が、神隠しやかどわかしなどではなく出奔だとわかったのは、当時、佐保の親戚の某が、男と連れ立って中山道へと続く春野街道を急ぎ足に去っていくのを見たからであった。
――俺のことを嫌いならそれでよかったのだ。ただ破談にすればすんだ話ではなかったか。
今でも新次郎はそう思うのだ。
そうしてその男と夫婦になれば、なんの問題もなくかたがついたはずだ。俺は一時傷心の淵で苦しんだだろうが、今のように四年も経って昔の気持ちを思い出して悶え苦しむようなことはなかった――。
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