一の二

 新次郎は瞬間、かっとなった。記憶の袋の中に手を突っ込まれて、思い出したくない記憶をむりやり引きずり出されたような気分であった。不快さがこみあげ、橋の欄干を殴りつけて、そのまま立ち去りたいという衝動にかられた。実際、こみあげた不快さに押されるように体を動かしかけたが、甚助の思いつめたような眼差しと視線が視界にからまると、ふと理性を呼び起こされたように思いとどまった。

 馬崎家老の屋敷で女中として働いていた佐保が失踪したのは確かに四年前のことだった。おまちという女の亡くなった顛末は知らない。松乃という馬崎家老の娘が亡くなった直前に佐保が出奔したのは覚えているが、なにぶん婚約者に逃げられたことの衝撃と落胆で当時のことはどこか曖昧で、思い出そうとしても霧の中で落とし物を探すような不明瞭さがあった。

「わたしは知りませんでした」と甚助が続けた。「わたしには棺桶のなかのおまちの顔すらもみさせてもらえなかったぐらいでして。仲間とのよもやま話の途中でふとそんな話がでなければこの先もずっと知らずにいたかもしれませんで」

「そんな話?」

「松乃様と佐保様とおまちの話です」

 佐保が出奔したことが高尾の百姓の耳にまで届いていたのか、となかば呆れるような、羞恥につつまれるような、不快がこみあげるなような気持ちであったが、新次郎はそのないまぜになった気持ちを、深く息をして胸の奥に押し込めようとした。

「そんなこともあるだろう」新次郎は自分に言い聞かせるように言った。「そんなこともあるだろう、人がたて続けに亡くなったり、姿を隠したり」

「金森様はお目付でしょう。お目付なら、調べられるのではないですか」

「わしは目付といっても徒目付だ。家老の屋敷の内情を調べる権限などはない」

「ですが、許婚の行方が気にはならないのですか。そんなに簡単に諦められるものなのですか。おらには無理ですだ。諦めることなどできません。どうか、おまちの死んだのと、佐保様がいなくなったのと、松乃様がお亡くなりになったのにどんな関係があるのか、お調べくださいませ」

「そんなものはお前の未練だ。あきらめろ」

「お願いします、四年前に何があったか、お調べください」

「俺には関係ないことだ」

 新次郎はすがりついてくる甚助の手をふりはらって、その場を立ち去った。

「お願いします」甚助の声が後を追って来る。「お願いします、お願いします」

「俺には関係ないことだ」

 新次郎はもう一度小さくつぶやいた。

 背後で遠ざかっていく又蔵が甚助をなだめる声が別の世界から聞こえてくる声のようで、まるで現実味が感じられなかった。

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