春陽照らし

優木悠

一の一

 男が金森新次郎に声をかけてきたのは、鶴間川にかかる水木橋のたもとであった。

 鶴間川というのは春原城下の西を南北に流れる運河で、石垣で固められた岸に沿った通りは城へ出仕する侍たちがよく利用するし、町人たちの往来も多い。そのなかで、男は遠くからでもわかるくらいに、人を待ち受けるある種の怪しさが体全体からにじみでているようであった。

 ――まさか俺を狙っているわけではあるまい。

 新次郎はちょっと用心しながらも、そしらぬふりをして橋のそばを通りすぎかけた。と、不意をつくように男は近づいてきたのだった。

 二十代なかばとみえるその男は、日に焼けた黒い顔がさらに汗と油で黒ずんでいて、髪はぼさぼさで無精髭を生やして、土と垢で汚れた野良着を着て、いくら百姓とはいえ侍と会って話をしようという格好ではなかった。

「金森さまでいらっしゃいますか?」

「そうだが」

 とつい反射的に答えて、しまったと思った。この男が話しかけた時点では、新次郎を当人だとはおそらく知らなかったに違いない。ひょっとするとそれらしい侍に手当たり次第に声をかけていたのではなかろうか。人違いだと言ってごまかすこともできたのだ。

「し、失礼は承知で、声をおかけしましただ。ぜ、ぜひとも」

 そう血走った目で近づく男を供の又蔵老人がとめに入ったが、老人をつきとばすようにして男は新次郎の前にたち、膝をつくと袴にすがりついて、どうかお話を、とひきつった調子で哀願するのであった。

 新次郎は男を押しのけて通り過ぎることもできたが、行き来する町人たちがなにごとかと訝しそうな眼差しをこちらにそそいでいるし、ともかくこのままでは体裁も悪いことで、溜め息をつきながら男を手招きして橋のたもとまでいざなった。

 男はなにかを成し遂げようとする意思の強さをみなぎらせた目をぎらぎらさせながらも、少し前かがみになって口もとは卑屈そうにゆがませている。ちょっと異様な顔つきだなと新次郎は思った。

「わ、わたし、高尾村の甚助と、もうします。金森様にどうしてもお話を、聞いていただきたいと」

 欄干に体を寄せて立つ新次郎に、背中を丸めて汗を拭いた手ぬぐいを手で揉みながら甚助が訥訥と話した。

「そんな重要な案件なら、家まで訪ねてくればよかったのに」

「いや、お武家様のお屋敷にうかがうなど、おそれおおいことで」

 ならば下城時刻を見計らって、襲いかかるように話しかけてくるのはおそれおおくはないのか、と内心あきれる思いであったが、新次郎はうなずいて先をうながした。

「え、っと、どこから話せばいいのやら」

 そういう甚助はここに至るまでに、頭の中で語るべき話の内容をさんざん反復してきただろうに、いざとなったら頭が真っ白になって言葉がでてこないようであった。

「わたしの、夫婦約束をしておりました、おまちというのがおりました。おまちは、高尾の隣の犬沢の名主の娘でしたが、ご縁がありまして、ま、馬崎様……、ご家老の馬崎様のお屋敷で下働きをいたしておりました」

「いや、すまぬが、わしはおまちという女に心当たりはない」

「で、ですが、金森様の許婚であった佐保という方も、馬崎様のお屋敷で働いておられたでしょう」

 嫌な方に話が進んでいく、と新次郎は顔をしかめた。佐保に関わる話ならば、なおさら耳にしたくはない。

「ああ、話が……」溜め息をつきながら甚助は、「ですから、その、馬崎様に奉公していた、わたしの、許婚のおまちは、四年前に亡くなりました。瘧だったか何か急な病だったそうで、わたし自身も悲しい思いをしましたが、気の毒なのはおまちのほうでして」

 どうも話が見えてこないな、と新次郎ななかば苛立ってきたが、苛立つ気持ちを深く呼吸をして押さえて、甚助の話をじっと聞いた。

「奇妙だと思ったのは、つい先日のことでして……。奇妙だとは思いませんか」

「何がかな」

「馬崎様の娘様……、松乃様が亡くなったのと、おまちが死んだのと、佐保様が姿を消したのが同じ時期にかさなるなんて」

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