五の一

 翌日、寝過ごしてしまい藩邸を出るのが昼近くになってしまったが、新次郎はいつもどおりの道を歩き両国橋へと向かった。麻布の藩邸から東へ向かい、増上寺を左手に見ながら東海道に出て、北上して日本橋へ向かい、後は辻々を赴くままに曲がって(なるべく人通りの少ない裏道も覚えた)両国橋へとたどり着く。二里の道にもずいぶんなれてきて、あんなに歩くのに難儀した人のあふれる往来も、平然と闊歩できるようになっていた。

 梶原があとをついてきているかはわからない。

 ただ、新次郎が佐保の住まいに近づいていると思わせれば、梶原か別の者かはわからないが、その真偽をたしかめるべく、きっとあとをつけてくるだろうという(根拠は薄いが)確信があった。

 両国の広小路まであと少しというところで、新次郎は草鞋の紐をなおすような風をよそおって、道端で座り込み、そのまま腰をかがめて路地へ入り込み天水桶の陰に姿をかくした。

 そうしてしばらくすると、顔を隠すように笠をかぶった侍が、辺りをちらちらと見まわしながら、路地の前を通り過ぎた。

 ――梶原だ。

 顔は見えなかったが、新次郎は直感でわかった。今日は出仕日のはずだが仮病でも使ったのだろうか。

 天水桶の陰からそっと出て、家の角から様子をうかがうと、梶原はきょろきょろしながら、立ち止まり、数歩進みまた立ち止まり、あきらかに見失った新次郎を探している様子であった。

 新次郎は梶原の後を追った。

 もし、梶原が佐保の居場所を知っているのなら、新次郎がたどりついたか確かめるべく、そこへと向かうはずだ。

 そううまくいくものだろうか、という疑念はあったが、梶原が向かわなければそれまでだ、という思いもあった。その時はすべて諦めるしかない、と覚悟を決めている。

 梶原は広小路へと出て、両国橋へと向かった。新次郎は人波に隠れつつも、見失わないように意識を集中させながら、迷いない足取りで歩く肩の丸い男の後ろ姿を追った。

 両国橋を渡り、回向院を過ぎ、しばらくすると南へと折れ、武家屋敷の角を幾度か曲がり、川を渡って、さらに武家屋敷の間を抜けて、商家の並ぶ通りに出ると、梶原は不意に立ちどまった。そうして辺りを注意深く見まわし、さっと小間物屋と醤油屋の間の路地へ体をすべりこませるようにして姿を消した。

 急ぎ足に新次郎は路地へ近づきなかをのぞくと二階屋の長屋が並んでいて、梶原は手前から三軒目の戸口の前に立って訪いを告げている。

 すぐに戸が開いて、梶原は中に入っていった。

 新次郎は路地に入ってその家の前をゆっくりと通り過ぎると、なかから、突然どうなされたの、と驚いたように言う女の声が聞こえてきた。新次郎の知らない女の声であった。

 ――あてがはずれたか……。

 唇を噛みながら、長屋の奥まで進んでいった。

 老婆が厠から出てきたところと鉢合わせたが、老婆はさほど不審がるふうでもなく、しかし、新次郎の笠の下の顔を無遠慮に見つめながら去っていった。それきり、ぱたりと人けが途絶えて、気味が悪いほどにあたりは静まりかえった。女の咳の声がどこかから聞こえたことで、ああ人がいるんだなとわかるくらいのものであった。

 風通しも日当たりも悪い、じめじめとした長屋の裏で、新次郎は汗をぬぐいながら待った。が、さほどの時をおかずに、梶原は出てきて、町人の女相手に頭を何度もさげながら、申し訳ありませんとか、以後気を付けますなどと謝辞を繰り返して、去っていった。

 梶原が路地を出て行くのを確認し、それでも用心にちょっと間をおいてからその家の前に立って、新次郎はしばらく戸惑った。戸を叩いて、家を間違えたのなんのと言って女の正体を探ることも考えたが、口下手の自分がそううまく聞き出せるものかどうか。

 と、木戸口の方から、ふいに影がさした。

「新次郎さま」

 女の声で呼びかけてきた。

 新次郎は声につられるようにして振り向いた。

「やはり新次郎さまですのね」

 女は静かな笑みをたたえた口で言った。

 佐保であった。

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