四の一
たどりついた両国橋のたもとで、新次郎は唖然とするしかなかった。
――なんたる人の数だ。
祭でもないのにこの人だかりはなんだというのだ。
つい先刻通り過ぎた日本橋界隈もそうとうな人出であったが、ここは輪をかけてひしめきあっている。
人いきれと砂ぼこりで息がつまるようだし、色とりどりの着物の色彩で目がちかちかするし、新次郎は血がさがるようで何度その場に座り込んでしまおうと思ったかわからない。
とにかく人波にもまれ、流されるようにしてようやく両国広小路までたどりついた。ついてみても、行きかう人を避けるのに精いっぱいで、風景を眺めることも、ましてや人探しなどはまったく不可能な状況であった。人波のなかでみんな、よく人とぶつからずに歩けるものだと感心するくらいであった。
新次郎は麻布という場所にある藩邸からここまで来るだけでも、何度も人と肩がぶつかり、何度もどなられた。気をつけろ、よそ見するな、もたもた歩くな……。それも町人にである。田舎侍など完全になめきっている態度であった。節約のために二里近くも歩いて来たが、帰りは駕籠を雇おうとうなだれるようにして思った。
それから一刻あまりも、両国橋を東から西へ、西から東へと行ったり来たりしていたが、自分の考えの甘さを痛感するだけであった。
――これでは、佐保を探すなぞは、夢のまた夢だぞ。
結局その日は、そうして藩邸へと帰ることにした。
途次、駕籠に乗ろうと決心していたのに、なんだか不当に代金を巻きあげられる気がしたし、茶屋で休もうにも気後れがして入りづらいし、痛む腰をさすりながら、往路の倍ちかくの時間をかけてとぼとぼと帰った。
「やあ、お帰り。尋ね人には出会えたか」
長屋にあがると、同室の梶原弥源太が、きらきらと光る歯を見せながら笑って訊いてくる。
「いやもう、人いきれで息苦しくって、血の気が引く思いだったよ」
「ははは、慣れないとそんなもんさ」
梶原は小納戸衆で、新次郎と同じ歳なのに、もう何度も参勤に従って国と江戸を行き来していた。顔立ちも整って物腰さわやかだし、垢ぬけたような態度がいささか鼻につく男であった。
「また明日も人を探しにいくのかい」
と梶原は訊いた。新次郎は頻繁に町に出かけても怪しまれないように、人探しをしていることだけは伝えておいたが、もちろん、自分を袖にしたもとの許婚を追いかけているのだとは、ひとことも漏らしてはいなかった。
「どうしようかな。あの人ごみのなかから人ひとりを見つけるのは至難の業だとわかったよ。どうも望みは薄そうだ」
「しかし、休暇申請は出したのだろう」
「ああ、十日もらった」
「こちらとしては、早く国へ帰って欲しいんだがね。いいかげん、ひとりでのんびりしたいよ」
「迷惑かける」
とあやまる気もないのに言って、新次郎は自室へと入ってごろりと横になった。そうすると体の芯にたまった疲れがどっと湧いて出てくるようで、脚をさするのさえ億劫に思えた。
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