frog lady 1

「別れたぁ?」


 井中は案の定大きな声を出した。

 昨晩からの雨は小雨にはなったが、しとしととまだしつこく降り続けているので、オレたちはいつもの時間を非常階段から倉庫脇の軒下に移動した。


「別れたっつーか、飽きたっつーか、めんどくさくなったっつーか」

「もしかしてカエデちゃん、メンヘラだった?」

「まあ、そんな感じ」


 カエデの話よりも、オレは井中がずっと舐めている昔ながらのポップキャンディが気になって仕方がなかった。

 この一週間足らずの間に、なんと井中は禁煙を決意したらしい。

 このヤニカスに一体なにがあったんだ。


「なあ井中、なんでタバコやめ……」

「あぁそうそう、俺そのうち日勤で営業やるかもしれん」

「はあ? なんで」

「いやあ、なんかさあ、元カノから連絡あってさあ。アゲハのキャバ嬢。デキてたらしくて」

「……」


 オレは絶句した。

 あのEカップの?

 いやそれ、ほんとにおまえの子かよ?

 強請ゆすられてるんじゃねえの?

 そんな言葉を発するのは下世話だとオレの中の善の心が叱りつけてくる。

 目の前の男はオレの知っている井中ではなく、とても安らかで決意に満ちた顔をしていたからだ。


「シンママになって夜の仕事続けさすわけにいかねえじゃん。俺がしっかりしないとさあ」 


 照れくさそうにアメを舌で転がしながらも、井中は頼もしい言葉をまっすぐオレに投げてくる。

 オレはそれを受け止められなくて、タバコを思いっきり吸い込んで、盛大にむせた。

 バカじゃねえのと言いながらも肩を叩いてくれる井中に、オレは涙目になりながらなんとか言葉を返す。


「えっ、え、じゃあ、おま、結婚?」

「うん」


 井中はこともなげに頷いて、歯を見せて笑った。


「なんだその顔。おめでとうくらい言えよなあ」


 ……おめでとう?

 オレは唖然とした。

 井中、めでたいことなのか?

 おまえ、これから先ずっと同じ胸しか揉めないんだぞ?

 いやそれどころか、その胸はしばらくガキに独占されるんだぞ?

 夜勤もキャバも辞めて減った収入の分汗水垂らして働いて、それでいてタバコも買えず、セックスだって自由にできないんだぞ?


 井の中の蛙なんとかを知らず、井中はオレのざわつく胸の内などお構い無しで話し続ける。


「こないださ、嫁の実家に挨拶も行ったわけよ。殴られるの覚悟で、ヨレヨレのスーツ着てさあ。でもかーちゃんがすげえ良い人で……」


 井中の朗らかな声はそれ以上オレの耳には入ってこなかった。

 代わりにどこからかきこえてくる、あの大合唱。

 げー、げー、げー。

 頭の中で、あの日トイレで泣きながら吐く彼女の後ろ姿だけが、青白く浮かんでいた。

 タバコの灰がぼそりと落ちた。


「んじゃ、そろそろ戻るわぁ。おまえ上がりだろ、お疲れー」

「あ、そ、そうだな……お疲れ」


 話し終えて満足したのか、井中は先っぽを噛み潰したキャンディの棒をタバコみたいにくわえて立ち上がった。

 オレはというと、ヤンキー座りのまま動けないでいた。

 腰が重い。足が地面に吸い付いたみたいだ。

 顔を上げることすらできない。


 井中は馬鹿だから、バカ正直に現実を受け入れているだけだ。

 どうせ女の訴えを鵜呑みにして、DNA鑑定もしていないのだろう。

 騙されてたまるか。

 オレはなにも知らないカエルではないのだ。


「くそっ」


 力無く投げたタバコは雨の中、水たまりに落ちて細い煙を立てて消えた。




「あれえ? どしたの、つうか顔色悪くねぇ? だいじょぶそー?」


 倉庫の扉付近から井中の気の抜けた声がする。

 知り合いかだれかが来たようだ。

 ああ井中、おまえはどうしていつも呑気なくせに、決めるトコでは決めて、それでいてまた呑気なんだよ。


「おーい、アツシ、ウンコしてないでこっちこーい」


 あいつが明確にオレを呼んでいるという事実にオレはうんざりした。

 しかしここでへそを曲げるのは、ガキの八つ当たりでしかない。


「してねえよ……」


 呟きながら、オレは渋々立ち上がった。


 井中は濡れるのも構わず、倉庫口で来客の応対をしていた。

 いつも通りのフランクな口調から、来客というほどかしこまった相手ではないらしい。

 大柄な井中の向こうに緑の傘が見える。

 オレに気づいて振り返った井中はニヤついていた。


「お迎えなんて、やっぱおまえ愛されてんじゃん」


 全く覚えのない言葉をオレに投げかけ、井中は身を引く。


「あーくん。久しぶり」


 オレは目を疑った。



 ――そこにいたのは。


 二足歩行し、カエデの声で話す、でかいカエルだった。





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