toad man 3

 すでに整わない呼吸の合間に、へぇ? と蛙が鳴き損じたみたいな間抜けな声が出た。

 いやいや、無理なのはこっちだよ。

 ここでやめたら、なんのためにこんな時間まで起きていたのかわからない。


 カエデは現実逃避とばかりに目を隠している。

 おい、ずるいだろ、それ。

 こんなことになっている下半身じぶんから、オレは目を背けるわけにはいかないのに。

 ベッド脇のゴムがちらっと視界に入る。

 オレは迷いなく、自身の窮屈なパンツに手をかけた。


 その時、カエデの細い腕がオレの脇腹を押し退けた。

 オレは体勢を崩してひっくりかえる。

 汗だかなんだかがシーツに数滴飛んでシミをつくった。

 彼女は、どたどたと足音を立ててトイレへと駆け込んだ。


「カエデ? なんだよ……」


 突然のことにオレは呆然とベッドに座り込んでいた。

 開け放されたドアからは、おええ、と、吐く音がきこえる。

 とりあえずパンツを履き直し、おそるおそるトイレを覗き込む。


 カエデは便器を抱え、繰り返し


 まだ体調がよくないのだろうか。

 でも、この光景。

 なんかドラマとかでよく見るやつだな。



 そう気づいた瞬間、オレの頭に最悪の二文字が電流のようによぎった。



 手も脇も頬も、そして背中までも伝う汗。

 さっきまで火照っていた体が急激に冷めていく、酷使していないはずの腰の骨がきりきりと鈍痛を訴える。

 乾いた口の中を潤すようにつばを飲むと、喉がいやに大きな音を立てる。


 カエデはでくの坊のように背後に立つオレに気づいてあからさまにびくついた。

 オレは動揺を悟られないよう笑顔で話しかけた。


「ど、どうしたの、だいじょうぶ?」


 カエデの目元は涙で、口元は透明な涎で濡れている。

 泣くほど辛いのか――なにが辛い?

 カエデは必死に口角を上げていた。


「ちがう、なんでもない、ごめんね。ちょっと体調悪くて、風邪かも、ほんとにごめん」


 オレは頷くことしか出来なかった。

 カエデの笑顔を直視できなくて視線を落とすと、さっきまでの元気が嘘のような股間が目に入る。

 情けなさでオレまで泣きそうだ。

 ふたたび便器に顔をむけるカエデ。

 裸の背中を見て、彼女はもう立ち上がることができないと気づいたとき、反射的に声が出ていた。


「あの、じゃあさ、オレ、帰ったほうがいい?」


 カエデはまたびくんと全身を震わせた。

 青白い脚が、まるで理科の実験で死んだ蛙の後ろ脚みたいにだらんと伸びて投げ出されている。

 ゆっくりと振り返る彼女はやっぱり作り笑顔だ。


「えっと、ほんとになんでもないから。ごめんねあーくん、でも、今日はもう寝たい、かも、ごめん」

「う、うん。じゃあ……」

 

 噛み合わない会話が逆にオレを安心させた。

 オレは努めて冷静に服を着た。

 カエデは見送りに立たなかった。

 玄関で振り返ると、トイレから明かりとすすり泣く声が漏れていた。

 せめてと、散らばったパンプスを揃えて出た。


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