3-3 あの日の真実 part2
「行っちゃった………」
春乃は今しがた弟が出ていった扉を見つめた。そして、屋上の縁まで歩いていった。
縁に立つと、広い校庭を見渡せる。いくつもの姿が、校庭に見える。あの日もちょうど、これくらいの時間帯だった。
春乃は大きく深呼吸をした。そして浅香真太郎と過ごしたあの夏を、まるでつい昨日の出来事のように、思い出した。
*****
「うわぁ、相変わらず上手だね」
春乃は隣で黙々と作業している浅香のキャンバスを覗き込んで、感嘆の声を漏らした。
「ちょっと先輩、まだ見ないでくださいよ」
浅香は制作途中の絵を見られて恥ずかしいのか、頬を赤く染めて言った。
「いやさ、みんなが浅香くんの絵、良いって言うからさ、どんなのだろうと思って。でも、本当に上手いよ」
「ありがとうございます」
夜の湖面に月や星が反射している。手前には草木が生えており、夜風で揺れた葉の重なり合う音が今にも聞こえてきそうだ。
ところどころ、手を加えられていない箇所があるが、それでも充分に上手さが伝わる絵だった。
「先生には、夜より昼の方が、高校生らしくて良いって、言われたんですけど、僕は夜のほうが好きで」
「わかる。神秘的だもんね。まぁ、浅香くんが描いたらきっと昼間の湖面も素敵なんだろうけど。私はこれが好きだなぁ」
春乃は思ったことを正直に述べた。浅香は頬を掻きながら立ち上がった。金木犀の香りが、ふわりと春乃の鼻腔をくすぐった。一瞬見えた横顔は、笑みをこぼしているように見えた。浅香は戸棚に近づき、一番上にある絵具入れに手を伸ばした。
「いたっ!」
箱に手を触れてすぐ、浅香は胸の下を抑えながら、しゃがみこんだ。
「えっ、大丈夫?」
春乃は浅香に駆け寄った。
「どうしたの? どこか痛むの?」
「いや、ちょっと………、昨日、ぶつけてしまって、でも大丈夫です」
しどろもどろに話す浅香に春乃は違和感を覚えた。
「でも、手を伸ばしただけで痛むなんて、おかしいよ。ちゃんと病院に行った? ちょっと見せて」
「えっ? いや、ちょ………」
春乃は、浅香のシャツに手をかけ、胸の下辺りが見えるまで捲った。
「えっ…………」
「………………」
春乃は言葉を失った。そこにはぶつけたでは済まない、明らかに暴力の痕があった。しかも一度や二度殴られたような痕ではない。常習的に殴られているような痕だ。
「誰にやられたの? もしかして、いじめ?」
浅香は首を振った。
「だったら、誰? 言いにくいような人なの?」
浅香は黙った。それが肯定だと言うように。
「教えて、浅香くん。誰にやられたの?」
春乃は浅香の肩を掴んで、彼の目をしっかりと見た。
「………阿澄、先生です」
それを聞いて春乃は絶句した。
「なんでまた………」
春乃は浅香からことの経緯を聞いた。
「浅香くん、今すぐ校長に言うべきだよ」
「でも、そうしたらカンニングのことも、親にバラされるかもしれない………」
「そんなこと言ってる場合!? こういうのは放っておいたらダメだ。必ずエスカレートする」
「でも、本当に嫌なんです………。父親にバレるのが」
春乃は嘆息した。どうしたものだろう。
「つまり、穏便にすませられるのなら、父親にバレないで止めさせられるなら、そうしてもいいってことだね?」
「えっ? それはまぁそうですけど」
「わかった。私がどうにかする」
春乃は帰り支度を始めた。
「どこか行くんですか?」
「うん。ちょっと買い物。ねぇ、浅香くん」
春乃は苦い顔をして言った。
「浅香くん。あと一度だけ、堪えてほしい。それで最後だから」
***
『………っ!』
音声レコーダーから聞こえたのは、浅香の苦しそうな声と、阿澄が彼を蹴るドスッとした音だった。
春乃は思わず耳を塞ぎたくなった。
やがて、ジポッと音が聞こえると、深く息を吐き出すような声が聞こえた。おそらく阿澄が煙草をふかしているに違いない。校内は禁煙のハズだ。
『お前も運が悪いな。俺みたいなやつに見つからなければ、こんな目に合わずにすんだのにな』
阿澄はまるで他人事のように言った。春乃は、レコーダーを止めた。
「浅香くん、ありがとう。本当にごめんね。痛かったでしょ」
「いや………僕は、大丈夫です」
およそ大丈夫とは思えない声で言った。
誰もいない夕方の公園。春乃は、ブランコから立ち上がり、浅香の前に立った。
「週明け、これを持って阿澄先生のところへ行く。交渉するんだ、先生と」
「交渉って、先輩がですか?」
「そう。交渉は私一人でいい。浅香くんがすると、上手く丸め込まれそうな気がする。第三者が行ったほうがいい」
「上手くいくでしょうか」
「わからない。でも穏便にことをすませたいなら、これが一番良い気がする。浅香くんは、家でゆっくりしていなよ。身体も辛いだろうし。上手くいったら連絡するよ」
「でも………」
浅香は心配そうな表情を向けた。
「大丈夫だって! それに私、全然先輩らしいことしてあげられてないからさ。浅香くん、私よりはるかに絵が上手いんだもん。だから、少しは先輩らしいことさせてよ」
「ね?」と春乃はやわらかく微笑んだ。本心だった。とにかく、浅香を助けてあげたいと、強く願った。
「………わかりました。お願いします。くれぐれも無理はしないでくださいね」
無理矢理、笑顔を作ったような表情だった。浅香が心から笑えるように、春乃は自分にできることをしたかった。
これからも浅香と多くの時間を過ごせると思っていた。しかし、これが春乃が最後に見た、浅香の笑顔だった。
***
「何の用? こんな所に呼び出して。というか、君は誰?」
白衣のポケットに手を突っ込み、気だるそうにした阿澄が扉から入ってきた。遠くでセミが鳴いている。
今日、阿澄とすれ違いざま、放課後に屋上へ来るように告げたのだ。あなたの秘密を握っているからと。
「二年の和泉春乃といいます。浅香真太郎くんとは美術部で同じです」
「浅香………」
「単刀直入に言います。浅香くんに暴力振るうの、止めていただけませんか」
阿澄は心底面倒臭そうな顔をした。そして舌打ちすると、春乃の横を通り過ぎ、屋上の縁の方へ行った。
「止めないって言ったら?」
阿澄は空を仰ぎ見ながら言った。
「これを、校長に提出します」
春乃は音声レコーダーを取り出し、再生ボタンを押した。昨日も公園で聞いた、一部始終が流れる。
「そんなもの、いつの間に」
「先週の金曜日に、浅香くんに持たせました。これが校長の手に渡れば、あなたにとって都合がよくないのでは?」
春乃は阿澄に近づきながら言った。
阿澄はレコーダーを睨めつけると、ため息を漏らした。
「これは俺と浅香の問題だ。なぜ部外者のお前がしゃしゃり出てくる」
「浅香くんじゃ、あなたを説得できないと思って」
「話なら浅香とする。それを寄越せ」
阿澄はレコーダーに素早く手を伸ばした。
「やめてください」
春乃はレコーダーを持っている手を後ろにやった。しかしその手を阿澄の手がすぐに追いかける。阿澄がレコーダーを掴み、しばらく揉み合っているうち――。
「あっ」
足を縺れさせた春乃の身体は宙へ投げ出された。
阿澄が目を見開いて、彼女の方へ手を伸ばしたが、その手は掴まれることなく、春乃の身体は落下した。
そして世界は暗転した。
*****
春乃は空を見上げて大きく息を吸い込んだ。あのとき、交渉なんかせず、校長先生に提出していれば、浅香も春乃も命を落とすことはなかっただろう。
浅香は自分を恨んでいるか。いいや、彼のことだから、きっと自分に知られたことを後悔しているだろう。「自分のせいで、先輩は死んでしまった」そう思っているに違いない。その後悔が彼をこの世に縛り付けているなら、もう解き放ってやりたい。
秋也は彼を上手く解放してあげることができるだろうか。弟のことは浅香と同じくらい気がかりだった。やはり素直に校長に提出していれば、自分は死ななかったし、弟も罪を犯すことはなかった。
秋也が「道連れにしてくれない?」と言ったとき、一緒に連れてってあげれば良かっただろうか。
「いいや………」
自分のした選択は間違いではない。だって死ぬにはあまりにも早すぎる。彼にはまだ命があるのだから、自分から捨てることはない。
改めて、大きく息を吸い込んだ。はるか前方を見ると、雲間から光がさしていた。自分の身体を見ると、透明がかった身体がさらに、透けて見えた。
視界もだんだん霞がかかってきた。
もう、終わる。長い孤独からようやく解放される。
「浅香くん、君も一緒に行こうよ」
あの日から時間が止まってしまった浅香の手を取るように、春乃は果てしない空に手を伸ばした。
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