3-3 あの日の真実 part1

 和泉が名を告げた瞬間、彼女の脳裏に電撃が走った。さまざまな映像が流れ込んでくる。この学校に入学して、美術部に入って、浅香真太郎しんたろうと出会って、そして…………。


しゅう、ちゃん…………」


 和泉春乃は何もかも思い出した。弟のことも、あの日、何があったのかも。


「秋ちゃん、私………」

「姉さん、ごめん。最初から姉さんの正体を知っていたのに。せっかくまた会えたから、一緒にいたくて、ずっと黙ってた」


 春乃は小さく首を振った。


「そっか……私、死んだんだね。浅香くんは………」

「さっき言ってた中嶋のお兄さんが、浅香さんなんだよ。お兄さんが亡くなった後、親が離婚して浅香から中嶋に苗字が変わったんだ」

「じゃあ、浅香くんはもう…………」


 そう言って春乃はゆっくりと目を閉じた。その拍子に彼女の目から雫が一滴落ちた。


「結局、私は、彼を救えなかったんだね。私は何てことを………」


 さめざめと泣く春乃にかける言葉が見つからなかった。彼女が落ち着くのを、和泉はだひたすらそばで待ち続けた。



***



「あの日、結局何があったの? 阿澄先生はどうして秋ちゃんを襲ったの?」

 少し落ち着いた頃、春乃は目に浮かぶ涙を拭いながら訊いた。


「きっかけはあの脅迫状。先生は僕があの脅迫状の送り主だと勘違いしてたんだ」


 和泉はあの日のことを思い出した。



*****



「すみません!」

 和泉が急ぐあまり、慌てて学ランを取ったせいでその隣に置いてあった阿澄の荷物が床に落ちてしまった。和泉は慌てて、それらを拾った。阿澄がため息を付きながらこちらへ来る。


 手前にある荷物をかき集め、少し離れたところに落ちた手帳を取り上げた。その拍子に四つ折りの紙が、手帳から落ちた。和泉はそれを手に取り、何となしに広げてみた。


「これは………」


 そこに書いてあった文面に和泉は驚愕した。


『お前の罪を知っている。公表されたくなければ、死を持って償うべし。』


「先生、これ…………」


 阿澄を見上げると、彼は鬼の形相で、紙を引ったくった。


「何ですか、それ」

「何ですかだと?」

 阿澄は鼻で笑った。


「何を白々しいことを。お前が寄越したんだろうが」

 全く身に覚えのない和泉は目を白黒させた。

「何を……仰っているのか、わかりません………。知りません。そんなもの……」

「何が目的だ。あ? 二年前のことか? 俺がお前の姉貴を殺したんだと、疑ってるんだろ!」


 唐突に語られたあの日のことに、和泉は言葉を失った。


「今なんて……? 姉貴を殺した? 先生が?」


 そのとき、和泉は胸ぐらを掴まれ、近くの机に投げ飛ばされた。和泉が体制を整える間もなく、阿澄はビニール紐を自身の手に巻き付け、和泉の上に覆いかぶさってきた。


「あの女も馬鹿なんだよ。浅香とは何の関係もないのにしゃしゃり出て来やがって。お前も姉貴と同じだな。部外者のくせに首を突っ込んで。関わらなければ死なずに済んだものを」


 和泉の抵抗する手をすり抜け、素早く首に紐を巻き付けてきた。

 背中に机の冷たい感触が伝わる。

「……っ!」


 紐が喉に食い込んで、苦しい。痛い。息ができない。頭に血が上って、視界が霞む。


 どういうことだ。阿澄が……阿澄が姉さんを殺したのか。あの優しくて、強くて、自慢の姉さんを。

「姉、さん…………」


 姉を想っての涙か、苦しさの涙か、和泉の目からは涙がこぼれ落ちた。


 こんなところで死ねない。まだ姉さんは成仏できずに屋上で彷徨っている。姉さんを助けられるのは僕だけ。こんな奴に殺されてしまった姉さんの無念を晴らせるのは僕だけだ。

 そう思うと、自分でも信じられないくらいの力が湧いた。


 和泉はありったけの力を込めて、阿澄を突き飛ばした。

 締め付けられていた喉に一気に空気が流れ込んできて、咳をしながら、和泉は床に蹲った。和泉の側では、阿澄も四つん這いになって蹲っていた。突き飛ばした拍子に棚に頭をぶつけたらしい。血で濡れた後頭部を右手で抑えている。


 和泉は首から紐を剥がし、椅子を掴んで立ち上がった。

 

 阿澄を見下ろす。


 こんな奴に、姉さんを殺された。こいつのせいで………。


 迷いはなかった。椅子を高く持ち上げ、何度も何度も、阿澄の後頭部めがけて振り下ろした。頭に手をやっていた右手ごと何度も。何かに取り憑かれたように、一心に振り下ろし続けた。


 どうして、こんな奴に。


 和泉がハッと現実に引き戻されたときには、阿澄は息絶えていた。自身の身体を見下ろすと、シャツには阿澄の返り血がいくらか付着していた。


 もう引き返せない。突き飛ばしただけなら、正当防衛だ。しかし、その後椅子で何度も殴った。殺そうと思ってそうしたのだ。そこには明確な殺意があった。


 今すぐ警察に行くべきだ。しかし、そうすると彼女を成仏させることは永遠にできない。今はダメだ。彼女が成仏するまで、決して捕まってはならない。


 まず和泉は学ランを着て、ホックまできちんとしめた。掃除道具を使って椅子の指紋を拭う。ビニール紐も首に巻き付けられたところは切り取った。


 脅迫状はどうするべきか。これがあれば、警察をうまくミスリードできるかもしれない。和泉は改めて手に取ってみた。


「ん?」


 先ほどは気づかなかったが、仄かに匂いがする。顔を近づけ、もっとよく嗅いでみた。


「これって………」


 金木犀だ。中嶋がつけていたあの香水の匂いに似ていた。もしかしたら中嶋のではないのかもしれない。しかし、紙からする匂いが、中嶋の持ち物から香る匂いにずいぶん似ていた。

 完全な金木犀ではない。少し混じり気のある匂い。違うメーカーの金木犀の香りなら、違うときっとわかるはずだ。

 そういえば、阿澄は「浅香とは何の関係もないのに………」と言っていた。その浅香が、中嶋の兄のことなら。二人の間に何か良くないことがあったとしたら、中嶋が阿澄を恨んで、この脅迫状を送ったとしても不思議ではない。


 和泉は迷った。匂い付きの脅迫状があれば、警察はいずれ中嶋にたどり着くだろう。そうなれば殺しの疑いまで、かけられるかもしれない。自分の行いで、友人に迷惑を掛けるのは絶対に嫌だ。しかしこれがなければ、最後に阿澄と会っていた自分がただただ怪しい。少しでいい。彼女を成仏させるまでの時間を稼げたらそれで。


 咄嗟に思いついたのは、この教室のプリンターを使って、新しく脅迫状を作り直すこと。そちらには匂いがついていないから、中嶋が疑われる心配はない。


 さっそくコピーした。本物の脅迫状は素手で触っているから、そのまま触っても問題ない。あとは先生の指紋を付けなくちゃならない。先生宛の脅迫状なのに、先生の指紋が検出されないのはおかしい。


 死体に目を向けると、先生の右手は原型がわからないほどに変形し、そして血で赤黒く染まっていた。自分がこうしたのだと思うと、途端に気分が悪くなってくる。


 自分は、阿澄とは違う。このまま人を殺したことを隠して生きていくつもりはない。ことが終わったらきちんと警察に行く。ずっと黙って生きていた阿澄とは違う。和泉はそう自分に言い聞かせた。


 阿澄の左手の指紋を偽の脅迫状に付け、和泉は実験室を後にした。



*****



「僕と姉さんは似ている。苗字も二人とも和泉だから、先生は姉弟だって気づいてた。思えば先生は、ずっと僕のことを監視してたんだと思う。僕が姉さんの死について疑問を抱かないか、先生を疑わないか。そして、少しでもそういう素振りをみせたら始末しようと、そういう心構えはできていたんだと思う。だからあの日、何の躊躇いもなく僕を襲えた」


 和泉は喉元の痣にそっと手をやった。あの日の感覚はまだ残っている。阿澄に伸し掛かられた重みも、息苦しさも、阿澄の表情もすべて。


「対して中嶋と浅香さんが兄弟だってことは気づかなかったんじゃないかな。苗字も違うし、言われてみれば似ている部分はあるけど、雰囲気は全然違うから」


 物静かな兄と活発な弟。相反する二人だが、中嶋が兄のことを慕っていたのは、和泉もわかっていた。


「その浅香さんだけど、あの日二人は何があったの?」

「中嶋くんと阿澄先生が言ったとおりだよ。浅香くんが阿澄先生から暴力を受けていると知った私は、それをどうにかしようと思った。浅香くんに頼んで、一部始終をレコーダーに録音してもらって、それを先生に突きつけた。ここに証拠がある、これを校長にバラされたくなかったら、今すぐ止めろってね。

 でも、そんな脅しに耳を貸すような人じゃなかった。結局もみ合いになって、私は死んだ」


 暴力を受けて困っている後輩を助けようとしたこと、真っ向から阿澄に交渉したこと、すべてが姉らしいと和泉は思った。


 その結果命を落としてしまったけれど、人のために動こうとした姉は、最期まで自分の知っている自慢の姉だった。


「結局私は死んでしまったし、浅香くんも助けられなかった。レコーダーもきっと、阿澄先生に処分されている」


 あの日、中嶋の兄は学校を休んでいた。春乃が屋上から落ちた後、その足で兄のところへ向かった。そしておそらく、彼女が死んだことを告げたんだろう。

 兄は、自分のせいで大切な人が死んだと思った。自分と関わったから死んだのだと。それが自殺の引き金となった。


 そう、自殺したんだ。和泉はハッとした。ある考えが脳裏をよぎった。


「姉さん、ひょっとしたら、浅香さんを助けられるかもしれない」

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