2-6 事件直後の光景
次の日の昼休み、和泉は二組の教室を訪ねた。第一発見者の望月に会うために。
二組の教室も和泉のクラスと同様に、阿澄の話で持ちきりだった。
和泉は扉の一番近くにいる男子生徒に「望月さんいる?」と声を掛けた。その生徒は、教室をキョロキョロと見渡したが、どうやら彼女はいないようだ。
「たぶん、美術室じゃない? 美術部だから」
近くでやり取りを見ていた女子生徒が教えてくれた。和泉は彼女に礼を言うと、そのまま美術室に向かった。
実は美術部に入部しようと思ったことはある。運動はさほど得意ではないし、音楽にも興味がない。それならば少しでも興味のある美術部に。
四月のはじめ、仮入部をするために美術室を訪れたのだが、和泉はその扉を開くことができなかった。脳裏にあの日の出来事がチラついて。
どれだけ時が経とうとも、決して忘れることはできないあの日のこと。普通に生活できるくらいに心は回復したが、傷が完全になくなったわけではない。純粋に美術部を楽しむには、どうやらまだ時間がかかるらしい。
この教室に入ることは永遠に叶わないかもしれない、そう思っていたのに、まさかこんな形で、ここを訪れることになるとは。あの時の和泉には思ってもみないことだった。
美術室のある廊下は閑散としている。扉越しに中の様子を伺うと、何やら人のいる気配がする。和泉は入る前に、スマホを出して、録画ボタンを押した。そしてそれを、警察と話したときのように学ランの胸ポケットに入れた。
「失礼します……」
中に入ると、女子生徒がキャンバスを前に筆をとっていた。ここにいるのは彼女だけのようだ。和泉の姿を認めると、彼女は顔をしかめた。
「いきなりごめん。僕、一組の和泉って言います」
「和泉……」
彼女は記憶を辿るように、和泉の名を反芻した。
「ああ、あなたが」
和泉は彼女の近くに行った。
「二組の望月さんだよね」
「そうだけど、もしかして、あなたも事件の話を聞きに来たの?」
彼女、
「ここに来れば静かに過ごせると思ったんだけどなぁ」
この様子だと、昨日からすでにうんざりするほど、遺体発見時の様子を聞かれているに違いない。自分が他の生徒と同じように興味本位で訊きに来たと思われるのは癪だった。
「ごめん。ちょっと事件のことを調べてて、教えてくれないかな。もう色んな人に話してて、うんざりしているだろうけど」
「いいよ、別に。私も和泉くんと話してみたいと思ってたところだし」
「僕と? どうして」
「だって和泉くんって、あの日阿澄先生といたんでしょ? きっとみんなも和泉くんから話聞きたいって思ってるよ。誰かに何か言われたりした?」
「いや、何も」
自分のことを不審な目で見る生徒の視線には気づいていた。みんな暗に思っているのかもしれない。”和泉が阿澄を殺したかもしれない”って。
一番身近にいる溝上や中嶋が何も訊いてこないのは、本当にありがたかった。二人は昨日の朝以外、事件のことを話題にしなかった。
中嶋は昨日からというもの、ずっとふさぎ込んでいる。話を振れば受け答えをしてくれるが、どこか元気がない。心ここにあらずという感じだ。和泉や溝上はそれに気づかぬふりをして、平静を装っているが、彼に事情を聞きたくて仕方がない。
「それで、あの日のことを話せばいいの?」
「うん。お願い」
「いいよ」
彼女はそう言って手に持っている筆やパレットを机に置いた。そして身体を和泉の方を向け、近くの机に頬杖を突きながら話し始めた。
「あの日の部活中、宿題をロッカーに忘れてきたことを思い出して、少しだけ早く切り上げて、教室に取りに行ったの」
ロッカーとはおそらく、生徒一人ひとりに与えられている教室前のロッカーのことだ。和泉も教科書類を入れるのに使用している。
「完全下校が十九時だから、その五分くらい前にここを出た。宿題を取った後は、一番南にある階段を下りて一階に行ったの。この学校って、十八時を過ぎると廊下の電気とか全部消えるでしょ? まだ夏だから電気が消えていてもそんなに暗くはないけど、それでも教室に電気が点いていたら目立つの。それで生物実験室から明かりが漏れてて」
生物実験室は旧校舎の一番南に位置している。つまり、望月が階段を降りてすぐ目にした教室が生物実験室になる。そこの明かりが点いていた。
「まだ誰かいるのかなって思って、扉の窓越しに中を覗いてみたの。そしたら誰も見当たらなくて。それで、中に入って見てみたの。そしたら前の方、一番扉に近い机の側で、先生が倒れていて」
その時のことを思い出したのか、望月は軽く身震いをした。
「先生はうつぶせで倒れてた。頭からいっぱい血を流して。最初、阿澄先生ってわからなかった。だって、こんなに身近にいる人が、頭を血だらけにしているなんて思わないじゃない。私、腰抜けちゃって。でも誰か呼びに行かなきゃと思ったから、何とか足を奮い立たせて、壁や手すりで身体を支えながら職員室に行ったの」
まさか見知った人間の死体と遭遇するとは。そんなこと、彼女は夢にも思わなかっただろう。自分だったら、声も出せず、その場から動けなかったかもしれない。そのような状況下でも人に知らせるという冷静な判断をくだせた彼女は、何というか肝が据わっている。
「うつぶせで倒れていたっていうのはどういう感じだったの?」
和泉が尋ねると、彼女は「うーん」と言いながら、身振り手振りでそのときの阿澄の様子を実演してくれた。
「こう、左手は前に伸ばしていて、右手は頭のところにあったかな。右手は血まみれで、すごいグチャグチャで。思い出しただけで気分が悪くなりそう。すごく、痛かったと思う。私、先生のこと別に好きじゃなかったんだけど、でもあんな死に方はないって思った」
「その血は右手にしかついてなかった?」
「うん。左手には確かついてなかった。私、記憶力は結構いいんだよね。普段からデッサンとかしてるからかな。自信あるよ。あ、そういえば、左手といえば、何か巻き付けたような痕があった」
「痕?」
「そう、何か細い紐みたいな。あとはそうだな………」
彼女は頬杖をついている手の人差し指でポンポンと、自身の頬を弾いた。
「紙が落ちてた」
「脅迫状だね。みんな噂してる」
「うん。文面はお前の罪をナントカ。先生の左手のすぐ近くに落ちてた。罪って何のことだろうね」
「さぁ。でも先生には仄暗い噂がいっぱいあるから」
「阿澄先生だけじゃないよ。この美術部だって………」
彼女がそう言ったとき、予鈴が鳴った。
「あーあ。私の話ばっかりで、和泉くんの話、全然聞けなかった」
「ごめんね。ありがとう」
「和泉くんともっと話したかったなぁ」
彼女は心底がっかりしたように、立ち上がった。
「それってどういう意味?」
「あら………。和泉くんって、自分の魅力に気づいてないのね」
望月は屋上の彼女がするようにいたずらっぽい笑みでそう言った。
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