1-5 気まずい居残り
和泉が生物実験室に入ったのは、十六時を二、三分過ぎてからだった。教室で勉強していたら、いつの間にか約束時間を過ぎていたのだ。
「ようやく来たか」
「遅れてすみません」
「言い訳はいいから、さっさと始めろ。まずは拭き掃除からだ。机と、埃が積もっているところを拭いていけ。戸棚はやらなくていい。その後は、手洗い場の掃除だ」
阿澄はいつもと変わらず、淡々と必要なことだけを指示した。阿澄自身も教卓で雑誌や論文をビニール紐でまとめている。彼も掃除をしていることに、若干驚きを覚えながら、和泉も取り掛かった。
学ランを脱ぎ、入り口に一番近い机に置く。シャツの一番上のボタンを外して、喉元の息苦しさを解消する。
机には、阿澄の荷物の他、掃除道具等も置いてあった。和泉は適当に雑巾を手に取り、手近な机から拭いていった。
これは和泉の勝手な憶測だが、阿澄は掃除に関してはうるさそうだ。適当にやったりしたら、即やり直し。初めから丁寧にこなすことが、最短時間でここから出られる方法かもしれない。
しばらく拭き掃除をしていると、阿澄が話しかけてきた。
「実験中、何を話していたんだ?」
あの冷淡な瞳がこちらを向いている。
和泉は返答に悩んだ。立ち入り禁止の屋上に行った話をしてました、阿澄先生が一番隠れて煙草を吸っていそうと話をしていました。これが事実だが、そのまま話すわけにもいかない。さらに罰が追加されそうだ。
「屋上の話をしてました」
「屋上?」
阿澄が怪訝な顔をした。
「幽霊がでるとか、でないとか………」
「まさか確かめに行ったんじゃないだろうな」
「行ってません」
咄嗟に嘘をついた。しかし、阿澄は和泉の言葉などまるで信じていないように「ふんっ」と鼻を鳴らした。それ以上深く追及してこなかったが、終始、阿澄からの視線を感じる。その居心地の悪さに、和泉は気づかれないよう小さく息を吐いた。
早く帰りたい。阿澄はなんだか怖い。何を考えているのか、腹の底が全くわからない。あの瞳で睨まれると、喉の奥がキュッと苦しくなる。すべて見透かされているのではないか、そんな思いが込み上げてくる。屋上へ行ったこともとっくにバレていて、すべて知ったうえで、わざと訊いてきているのではないか。そんな気がするのだ。
自分の胸の内は決して明かさないが、他人が隠したいことは容赦なく探ってくる。阿澄に目をつけられたが最後、彼からは二度と逃れられないような、そんな不穏な雰囲気をまとっている。
そんな気がするだけで、実際のところはわからない。和泉は先走りたい気持ちを抑えながら、目の前の拭き掃除に専念した。
***
掃除を開始して、二時間が経った頃、下校を知らせるチャイムが鳴った。
「和泉、もういい。終わりだ。片づけてさっさと帰れ」
阿澄はノートパソコンから目を離さずに言った。教卓を見ると、先ほど整理していた雑誌類はどこへ行ったのか、すっかりきれいになっていた。
阿澄はパソコンの前から動こうとしない。掃除した箇所をチェックするとかは、特になさそうだ。和泉は阿澄の気が変わらないうちに早々に実験室を後にすることにした。
「さよなら」
片づけを終えて、阿澄に挨拶をするが、無視された。
実験室を出て最初は歩いていたが、離れるに連れて、小走りになっていく。少しでも早く実験室から遠ざかりたくて。
校舎の電気は既に消えている。職員室や自習室には明かりがともっているだろうが、それ以外の教室は基本的に電気が消えている。
一年生の教室は、実験室と同じ旧校舎の四階。
和泉は勢いよく階段を駆け上がった。四階につくと、人の気配がまるでなかった。教室に入り、鞄を手に取ると、自分が学ランを着ていないことに気づいた。
掃除の邪魔になるからと、脱いで実験室の机に置いていたことをすっかり忘れていた。
取りに戻るか? 実験室に。
和泉は迷った。せっかく阿澄から解放されたというのに。しかし、ここで学ランを取りに戻らなければ、きっと阿澄はそれを職員室へ持っていくだろう。月曜日、阿澄の元に取りに行くなんて、絶対に嫌だ。
仕方ない。実験室に戻ろう。時計を見ると、時刻は十八時十分をさしていた。和泉はたった今通ってきた廊下を足早に引き返した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます