1-4 冷淡な生物教師①
「えっ。和泉、行ったの? 屋上」
「諒太郎、声大きいって。
そう言いながら溝上はビーカーを持っている腕で中嶋を小突いた。黒板の方を見ると、生物教師の阿澄がこちらをジロっと睨んでいた。
「ごめんごめん。ていうか、開いてたの?」
「うん、まぁ」
「それで、いた? 女の子」
「いや、いなかったよ」
和泉はそう言ってから、この話題を持ち出したことを後悔した。
屋上の彼女のことを、二人に話したくなかった。噂を率先して広めることはきっとしないだろうが、あまり事を大きくして、彼女の周辺が騒がしくなるのは嫌だった。もしかしたら、自分みたいに様子を見に行こうとする者も現れるかもしれない。霊感のない者はどうせ見えないだろうが、彼女が成仏するまでの間、できるだけ静かに過ごさせてあげたかった。
「まぁ、そうだろうな。その、見たっていう生徒もきっと見間違いだろうな」
溝上はこの話題に興味がなさそうだった。それよりも漏斗を使って、ビュレットに水酸化ナトリウム水溶液を流し込むことに集中している。
今は化学基礎の授業。今日は中和滴定の実験だった。ビュレットと呼ばれる細長い器具に水酸化ナトリウム水溶液を入れる。そして、濃度のわからない食酢と指示薬を入れたコニカルビーカーに少しずつそれを滴下し、中和点をさぐるのだ。最後に、滴下した水酸化ナトリウムの量をもとに、食酢に含まれる酢酸の濃度を計算する。
「まぁでも、まさかお前が、わざわざ屋上に確かめに行くなんて思わなかったよ。なんでまた?」
溝上が着実に準備を進めている様子を眺めながら、中嶋は言った。
「もしかしたらいるかもしれないと思って」
和泉の返答に中嶋は首をかしげた。
「にしても、なんで鍵開いてたんだろう。閉まっているはずだろ」
「こっそり煙草を吸いたい先生が鍵を壊したとか。校内禁煙だし。まぁ、先生とは限らないけど」と溝上。
昨日彼女は、カップルがたまに来ると言っていた。そのカップルたちが開けたのか、中嶋の言うように、喫煙したい誰かが開けたのか。
いずれにしても誰が開けたのかは和泉にとってどうでもよかった。
「ねぇ、先生なら、だれが一番こっそり吸ってそうかな」
中嶋が声を潜めて、和泉たちに問いかけた。
「やっぱ、阿澄とかかなー」
中嶋が阿澄を一瞥しながら言った。
「まぁ、ありそうだよな。定期的にニコチン接種しないと、ヤバそうな顔してるし。和泉、それ取って」
溝上が和泉の近くにあるコニカルビーカーに向かって、クイと首を動かした。
「あぁ」
ビーカーは和泉が机についていた右肘のすぐ側にあった。体勢を整えようと起き上がった時、右手がビーカーに当たり、食酢と指示薬の入ったそれは、そのまま床へと落ちてしまった。ビーカーは派手な音を立てて割れた。
教室中の視線が、和泉たちのテーブルに一斉に集まる。
「やっちまったな」
溝上がため息を吐きながら、メガネをクイと上げた。
和泉が破片を拾おうとかがんだとき、肩を誰かにむんずと掴まれた。
「実験中にくだらない話をするから、こういうことになるんだ」
先程まで教卓にいた阿澄が、冷ややかな声色で言った。リムレスのメガネの奥にある瞳は、侮蔑の色を含んでいるように見えた。
「すみません」
「これが食酢じゃなくて、もっと危険な薬品だったらどうするんだ」
「はい。すみません」
返す言葉もなかった。
「和泉。今日の十六時、生物実験室に来い。罰として実験室の掃除だ」
阿澄は割れた破片をちらっと見ると「破片の掃除は箒を使え」と言ってその場を離れた。
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