第一章
1-1 幽霊の噂
「三組の奴に聞いたんだけどさ、この学校、出るらしいよ」
「出るって、幽霊?」
「そう」
中嶋が先を続ける。
「この校舎の屋上に女子生徒の幽霊が出るんだって」
「よくあるよな、そういうの」
「なんかヤダよねー。そういう噂が流れてるの」
自分からその話題を持ち出したくせに、中嶋はその手の話が好きではないようだった。顔をしかめている。
「まぁこの学校も古いし、そういう噂の一つや二つはあるだろ」
溝上は眼鏡をクイっと上げながら、冷静な面持ちで返した。
和泉はそんな二人のやり取りをなんとなしに聞いていた。
ここ、
和泉は今年の春、創明高校に入学した。特に進学したい高校はなく、身内が通っていたからという理由だけでここを選んだ。
建物は旧校舎と新校舎に別れていて、和泉たちがお弁当を食べている一年一組の教室は旧校舎にある。この旧校舎の屋上で、女子生徒の幽霊が目撃されたという。和泉もそういう話は得意ではなかったので、適当に聞き流していた。
「だいたいさ、この街ってそういう噂が多いんだよね。夕方に駅近くの公園を通ったら、ブランコがひとりでに揺れているとか、踏切の近くに男の霊がうずくまっているとか。あとは、神社の階段が夜になると増えるとか。ホント、うんざりしちゃうよ」
「誰かが面白がってそういう噂を広げてるんだよ。お前とかな」
「オレ、別に面白がってないし!」
溝上の一言が不本意だったのか、中嶋はぷりぷりと頬を膨らませて向かいに座っている溝上を小突いた。中嶋の伸ばされた左腕が、和泉の前を通り、溝上の腕をつついたとき、ほんのり甘い香りがした。
「ねぇ、ずっと気になってたんだけど、中嶋がつけている匂いってさ、何の匂いなの? 香水だよね」
入学してからというもの、中嶋からほのかに甘い香りが漂っていた。それは本人だけではなく、彼の持ち物からもだ。
和泉の言葉を受けて、中嶋は嬉しそうにニヤりと笑った。
「わかる? これ、
中嶋の父親は、ASAKAホールディングスの現社長だ。主に女性向けの香水を販売しており、そのブランド、
「金木犀と紫苑って花を調合したんだって」
「紫苑?」
あまり聞き慣れない花の名前だった。
「兄貴がよく好きで金木犀の香水使ってたんだけど、それとあんまり匂いが変わらないんだよな。こっちの方がちょっと薄いだけで」
「なんで二つの花を混ぜたんだろうね」
「わかんない。親父の考えてることはいつもわかんねーよ。これも作らせるだけ作らせておいて、販売とかはしてないみたいだし」
中嶋と和泉が出会ったのは、中学三年生の頃だ。溝上を含めた三人は同じ塾に通っていた。中嶋の姓はもともと浅香だったらしいのだが、出会ったときにはすでに母親の姓だった。彼が中学二年生の頃に親が離婚したらしいのだが、詳しいことは和泉もよく知らない。中嶋と幼なじみの溝上なら何か知っているかもしれないが、この手の話になると彼は黙り込む。
和泉にわかることは、中嶋はどうやら父親のことをあまりよく思っていないということ。
「この匂い、女ものだけど、何か落ち着くんだよね」
「何だ、俺はてっきり高校生になって色気づいたのかと思った」
溝上が軽口を叩く。
「違う違う! そりゃ、まったく下心がないとは言わないけど。それよりさ、これ見てよ」
中嶋はゴソゴソと鞄をあさり始めた。そして何かを取り出すと、和泉たちの前に掲げた。
「じゃーん。こんなの作っちゃった」
それは掌よりも小さい巾着袋だった。
「もしかして匂い袋?」
「そう」
「お前って、ときどき変な方向に器用さ発揮するよな」
溝上は半ば呆れるように言った。
中嶋の持ち物から匂いがするのはこれが原因だったのだ。鞄に匂い袋を入れているから教科書やノートに匂いがうつったのだ。
「ノートとか、めっちゃ良い匂いするんだよね。これで授業も乗り切れるわ」
中嶋は手ごろなノートを掴み、開いて顔を埋めた。スーッと息を吸い込んでいる音が聞こえる。そんな様子にやれやれと溝上は息を吐いた。
「で、その幽霊の噂って、結局何なの?」
溝上が特に興味も無さそうに問いかけた。
「いや、オレも詳しくは知らないんだけど、数年前に事故が起きたんだって。女子生徒が足を滑らせた」
「そういえば、ここの屋上ってフェンスないよね」
和泉は、今いる校舎の外観を思い出しながら言った。新校舎の方にはフェンスがあるが、旧校舎の方にはそれがない。端のところが一段高くなっているだけだ。旧校舎は五階建てだから、そこから落ちれば、まず助からないだろう。
「屋上はそれ以来封鎖されているから、もしそこに誰かいるなら、それは幽霊以外の何物でもないんだって」
屋上の話はそこで終わった。次は昨日のテレビ番組の話になった。
和泉は二人の話を聞きながら、頭の中ではその屋上の幽霊のことについて想いを馳せていた。
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