ね██∵██と∵█ろ██む

夢██

 目が覚めたとき。

 こういう表現で、合っているのだろうか。

 僕は確かに目を覚ました。

 僕は、僕らは実験中の事故によって死んだはずだった。

 あれだけの爆風で建物は全部吹き飛んだだろうに、けれども目覚めた僕の目にはいつもと少し違ったセカイの景色が映っていた。

 壁に飾られた鳩時計が無くなっていた。豪華な扉はなくなって壊れた自動ドアに変わっている。長机もオフコンも機材の何割かがまるごとなくなって、本棚の代わりに空の水槽が置かれていた。中には容器の大きさに不釣り合いな大きな魚の骨が横たわっている。

 僕たちの研究室ことリドリー・スコット部屋は廃館になった小さな水族館へと変貌していた。

 しかし、僕と鞍掛メリー以外の人間はその事実に気づいていないようで、誰もが最初からこうであったというような様子で作業に当たっていた。

 目の前を数分前に吹き飛んで消えた研究員が通り過ぎる。



「あなたは僕らを騙していたんですね」

 鞍掛メリーに屋上に呼び出されたとき、僕は開口一番にこう言ってやろうと決めていた。

 なんで僕らは生きているのか、とか。そういうことを聞いたほうが良かったかもしれないけれど、それだけ僕はこの女に対して憤っていたんだろうか。

 真夏の熱風が僕らを包み込み、干された洗濯物がベトンの上に影を落としながら踊った。

「ここはとても暑いから」

 鞍掛メリーの異国の鳥のような声が暑い空気を裂く。

「扇風機が新しくなったのは良かったけれど、オフィスコンピュータがない状態で、これからの研究をどうしましょう」

「僕の質問に答えてください」

 僕の声は怒っていたかもしれない。しかし、それは本当に僕の声なんだろうか。今日僕は一度死んだわけだから、昨日の僕とは違っているのかもしれない。しかし、ここまで鮮明に記憶を保持できているということは、きっと……

「あなただって騙していたじゃない。気づくなんて思わなかった」

 僕は、鞍掛メリーを騙したのか?騙したかもしれないとも思う。彼女が必死に隠してきた秘密の片端を土壇場になって掴んでしまったのだから。

「まだ僕たちに教えていないことがあるはずだ」

「それは今すぐ説明しなくとも、製品版ネクロ・ネットを使えばすぐにわかることだよ」

 研究倶楽部を解散しようと思っているの、と彼女は続ける。どうして、と僕が問うとまた事故が起きたら復元が面倒だからということと、セカイの仕組みが変わったことで一人でも研究を続けられるようになったからだそうだ。僕たちは先輩の遊び道具だったのだろうか。

「先輩は魔女ですね」

「なんと言ってもらってもいいけど。そういえば君は、独自性がなくて他人を貶すことしか能がない人間だったね。研究室もあまりに人が多くなったから忘れていたよ」

 鞍掛メリーはさっきからどんな表情を作っても内側に隠した不機嫌さを隠しきれていなかった。こんな彼女は初めてみたように思うけれど、もしかしたら僕が違和感を覚えていた理由そこにあったのかもしれない。

「先輩が広大な無意識の泉から汲み取った、ユングの理論を否定するに至った21グラムの魂。あれはあなたのものだったんだ」

 先輩は少し目を開いて驚いたような顔をした。その後、そこまでわかっているならもうなんでもいいというような無気力な表情になって、その通り、と僕の胸を小突いた。花咲岬のくせに冴えるなよ、と言われたような気がしてむかついた。

 踵を返した先輩の影が晴天にひらめくシーツの影に隠れて見えなくなる。柔軟剤の香りが砂埃の煙たさを何処かへやろうと必死になっている。


 胸ポケットにおかしな感触があったので覗いてみると、紙みたいに薄っぺらいが形状的にフラッシュメモリのようななにかが何枚か入っているのが見える。その中の、一際奇怪な青色をした一枚を僕は手に取った。


 その日「電脳聖杯研究会」は解散した。部員たちの反応はああ今日でお開きかというように非常に淡泊で、それがテスト直前の熱気に包まれた研究室を知っている僕にはなんともおかしかった。

 



 20XX年、正規版「ネクロ・ネット」普及から三年。


 鞍掛メリーが提示した「多元網状死界層電脳聖杯(ネクロ・ネット)」理論は多くの人間を地獄の縁から救い出した。

 のだろうか。

 人の心はネクロミング言語を介して表層的に繋がったかもしれない。しかし、それはあのとき指の先から魂が抜け出たみたいな、他人の表情が階層的に歪んで見えたりとか、あの感覚の地続きにあるものだ。

 人々がネクロ・ネットを使うたびに、このセカイは急速に衰えを増していくように僕には思える。

 寂れた町並みからさらに色が消えていく。事故の前のセカイにはなかったおかしなドラッグが流行る。そのせいで人が死ぬ。

 退廃した現実が、この場所はもう壊れて行くばかりで救いはないのだということを教えてくれた。



 鞍掛メリーの電話番号なんて消しておけば良かった。呼び出されたら僕はきっとさんざん渋ったあと、結局会いに行ってしまうのだから。

 僕たちの研究室だった部屋は間取りから立地場所まで変わってしまっていて、それは、この三年の間に鞍掛メリーがまた、自身と僕以外の全人類に内緒でセカイの書き換えを行った証拠なのだと思った。部屋の出入り口は吹き抜けになっていてドアは必要なくなっていた。

 壁際の至る所にスーパーで見かける野菜でも入っていそうな棚の数々が陳列されていて、僕たちのリドリー・スコット部屋は影も形もなくなっている。そこはただの寂れた野菜直売所だった。

 鞍掛メリーは三年前に比べて少しだけ背が伸びたように思う。いつも来ていた学生服ではない黒のツーピース姿は、見慣れた制服が白だったからだろうかあまり似合っていないと思った。彼女は右手に洗いやすそうな麦茶ポッドを持っている。中身は正直……あまり見たくない。


「答え合わせをしてくれませんか」

「その前に、私を魔女と呼んだことを訂正してくれない?私はどちらかというと王子様の迎えを待つお姫様なのだけれど」

「先輩は魔女です」

 鞍掛メリーはにこりと笑顔を作った。その笑顔はやはりあのときと同じく機械的で不思議なニュアンスを含んでいる。

 飲みなよ、と僕に向かって底にキノコみたいな物体が浮いた気持ちの悪い飲み物を手渡してくる。僕は苦笑いしながらそれを受け取ると、飲め、と視線が諭すので恐る恐るコップの縁を口元に持っていった。これを飲んだことは今までなかったけれど(だって見るからに気持ち悪いし……)無味無臭だった。

「新しいセカイの仕組みは、コンピュータを使うためにハードディスクをほとんど不要にしたみたい。何千回と破壊を繰り返した甲斐があったわ。良いくじを引き当てられて良かった」

「このセカイは最初から壊れる運命にあったんですね」

 鞍掛メリーはもう私が壊したようなものだよと言った。

「僕はまだ、ここで粘りますよ。モモとコネクトするためなら……きっかけを与えたのは貴女だ」

 彼女は大きく溜息をついて君っていつもそればっかり、と言うと額に手を当てる。大事な人を忘れられないのはわかるけど、私の作ったサーバーは生憎動物には対応できなかった、と。

 君のために試作のプログラムを作ってみたけれど、役に立ちそう?と聞かれたけれど、僕はその質問には答えなかった。

「ネクロ・ネット(電脳聖杯)。このシステムは大脳辺縁系にアクセスしてそこに故人の記憶を模したプログラムを流し込む…という体で売り出しているけれどそれは表向きの話。使った人はわかるけど使ったあとじゃ戻れない。

 それは実際にその一端を体験したあなたなら重々わかっているはず……」

 この記憶は本物ではないんだよ。私達の知りうる限り、セカイのどこにも本当のものなんてないの。


 そんなこと、僕はもう知っているんだ。

 でも、それでも、そこにあるなら縋ってしまうじゃないか。人間は。

 人間はそういうふうにできているから。


 それに、鍵(クラヴィス)を渡したのは彼女だ。


「やっぱり青の端子を真っ先に解析したね。でもそれは、君が"間違えた"ときにそのきっかけの全てを私のせいにできるようにしたかったからだよ。

 君がわかってて言ってるのならいいけど」

「全部わかっていますよ。先輩が開いたのはネクロ・ネットのnew objectだ。そうでしょう」

 先輩は答えない。

 答えない代わりに琥珀に虹を閉じ込めたような瞳が肯定の意を示していた。

「種明かしをしましょう。私はもう両手では数え切れないくらいの君たちの認知しているセカイ、object"limbo"を繰り返しているの。このobjectは私が失敗を繰り返す度にデータクラッシュを蓄積し、荒廃していくわ」

 いつもは一人分だったけれど、三年前のあの日から二人分の記憶領域を簡易サーバーに焼き付けられるようにしておいたから、君と私以外の人間はセカイが変わってしまったことに気づいていない。

「大切な人に出会うために私はこのセカイを見捨てることにした」

「セカイはあなただけのものではありません」

「あなた達の言う"セカイ"という言葉、枠組み、そのすべてが大嘘なのよ。辺獄を彷徨う魂は永遠に救われることはないわ、擦り切れて消えてなくなることも許されない」

 他のobjectに移行したところでここのように欠陥が見つかればいつ消滅してもおかしくないとも。新設objectでは従来のシステムでの欠陥をすべて排除しているから問題はないはずだと鞍掛メリーは付け加える。

「new object、あなたの理想郷には何があるんですか」

「すべての人間の安寧があると、私は信じている」

 そんなもの、この世にはない。モモは、一度死んだ魂は帰って来ない。

 僕はモモが死んだとき、そして僕自身が実験事故で一度死んだあの日にそう悟ったのだ。僕は僕自身でその考えを否定しようとしているのかもしれないけれど、それは果たして正解なのだろうか。

 鞍掛メリーは僕の不安を拭うように、最後の一撃を喰らわせるように、言葉を紡いでいく。

「"セカイ"というのはまるでサーバーのように複数存在するわ。利用サーバーが変わることで起きる弊害はこちらで使用してきたuser nameが変わったり、年齢や作業環境が大幅に変わるだけ。"limbo"が擦り切れて消滅したときのための人類の生存データは正規版ネクロ・ネットを介して新設objectに集積されています」

 南無阿弥陀仏と呟けば極楽浄土への扉が開く。その要領で、ネクロ・ネットを使用すれば鞍掛メリーの作り上げた理想の世界への扉が開かれるのか。

 この少女が達観していたのは、この世がどのようにして動いているのか、その仕組みのすべてを知っていたからだ。

「行き止まりを知っていたんですね」

「私たちのセカイ、object"limbo"は諦めるしかないけれど、膨大にレイヤー分けされ続ける世界に行き止まりはないに等しい」

 僕は彼女の言っていることが理解できているのだろうか。生きてきた時間の長さによる知識量の違いを僕は痛感していた。

 鞍掛メリーという魔女のお陰で破滅を免れたセカイ、意識、魂。

 僕たちは彼女の創造した新設objectに希望を見出す他に道はないらしい。

 形のいい小さな口が開かれて、座談会で彼女はいつもこうやって喋りだしていたと思い出した。

「君、私のことが好きだったでしょう」

 僕の胸が風船だったとしたら、針を刺して空気を抜かれた気分だった。

「バレてないと思ってました」

「君はいつも私を見ていた。それで少しでも気持ちが休まればと思っていたけれど、そううまくはいかないものだね」

 君の方の研究は順調そう?と鞍掛メリーがまだ先輩ヅラをするものなので僕は教えませんと一言答えた。

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