ねく█∴ね█と∴ぷろ██む
夢夢█
それは「ネクロ・ネット」の試験接続テストでの出来事であった。
いよいよ最終段階まで進むことができたということで、研究室はかつてない盛り上がりを見せていた。
「見てよぉ、メリー先輩の紅茶キノコ。また新しい株ができてる」
「前と使っていた容器が違う。前は透明なポットで作っていたはずだ、あれはどうしたんだ」
後輩たちが、先輩のポットをビニールシートの上に並べて騒いでいでいる。冷蔵庫から取り出して来たのだろうか。先輩は物の位置をすべて把握しているから、戻すときに置き場所を間違えたことがバレたら怒られるぞ。
「それにしても、人気者だな……」
この部屋にいる全ての人間は鞍掛メリーの信奉者と言える。疑問を抱き始めたものは追い出されるのだからそうに決まっているのだけど。
みんながみんな、鞍掛メリーに頭からどっぷりと浸かりきっている。
まるで泥沼か蟻地獄だ。
テーブルを取り払った部屋の中央にメリー先輩がいて完成したばかりの試験用ネクロチューブと、大量のサージカルテープ――これは研究員たちが何度も薬局に通い詰めて買い集めたものだ――を両手いっぱいに抱えていた。
「遂に私達の大願が叶いました。ここまで協力してくれてありがとう」
先輩が仰々しく頭を下げて年相応の少女らしい表情ではにかんだ。体が揺れてチューブとテープがコロコロと床に転がった。
僕はまた先輩の言葉に違和感を覚えていた。大願なんてそんな、この研究は確かに人と人を繋ぐ大きな架け橋になるだろう。しかし、そんな、「大願」、だなんて言い方では「ネクロ・ネット」とはまるでメリー先輩が……
「それと君、岬君」
先輩が僕の名前を呼んだ。僕の意識は思考の海から急速に引き上げられ、意識の水面に浮上する。
「なんですか」
「私は開発責任者として花咲岬君の実地テストへの参加は認めません」
「わかりました」
わかっていた。自分がこれ以上ネクロ・ネット開発に関わり続けるのは危険だということは。
「岬君の癖に随分お行儀がいいね」
「もう僕が駄目なことは、わかっていましたから」
彼を失ったあの日からキーボードを叩く指が霧散していくような感覚が現れ始めた。それはシステムに侵されかけている兆候で、僕は自分は近いうちにネクロミング言語に食われてしまうと思い始めていた。先輩は今まで僕と同じ症状が現れた研究学生は逐一調べあげて退部させてきた。
僕は自分の荷物を手に取ると、屋内に比べて異常に豪華でアンバランスな玄関ドアに向かって歩みをすすめる。
天井に届くほどの高い本棚が四方を埋め尽くす小さな研究室。その隅に置かれた壊れかけの扇風機。実験の邪魔にならないように端に寄せられている見慣れた長テーブル。今改めて眺めてみると、それはダ・ヴィンチの描いた「最後の晩餐」に出てくる丸テーブルに似ているようにも思えた。使い込まれた人数分のパイプ椅子とオフコン、退部していった人間の分が空きスペースに乱雑に捌けられている。
扉の前に散らばった学術書を脇にどけると、失礼しますとだけ告げて僕は研究室を後にした。扉が閉まるときのギギィという音が別れの挨拶のように哀しく鳴り響いた。
僕は音でバレないように静かに先程締めたばかりの扉に背を預ける。その場を急に立ち去れるほど往生際のいい性格ではなかったからだ。
ネクロミングの後遺症――なのかどうかは僕にはわからないが――が出始めたころからメリー先輩の挙動は少しずつおかしくなっていったように思う。いや、気づかなかっただけで最初からおかしかったのかもしれない。先輩はそれに気づかれないように早いうちに部員たちをクビにしていったんじゃないだろうか、と勘ぐってしまう。
あの日先輩が口にした「理想郷」とは何なのだろう。
理想郷なんてこのセカイにありはしないのに。
鼓膜の内側で手を叩かれたような、おかしな衝撃が脳を、物体としての脳を揺さぶった。
直後、もたれていたドアが風圧で逆方向に開閉された。蓋を失った長方形の出入り口から物凄い熱気が溢れて、夏の清々しさも含んだからりとした暑さを後方に吹き飛ばしていく。
研究員たちの悲鳴が聞こえてくる。部屋の中央に佇むメリー先輩は、僕を見るとあのときのような伏し目がちで複雑な表情を一瞬だけ見せた。
僕にはもう、その顔の意味するところがわかっていた。
「あなたたち、逃げなさい」
メリー先輩の声はフラットだった。いつものように「君たち」と気さくに話しかけるでもなく、「あなたたち」と、酷く他人行儀な言葉を使った。その言葉にはまるで、僕たちが映像作品の一登場人物に過ぎないかのような、或いは何もかもどうでも良くなってしまったかのような、どうしようもない空虚が内包されていた。
何千何百回と同じ景色を見てきたとでも言うように、逃げるも逃げないもお前たちの自由だとでも言うように。
目の前の男子生徒の体がジュワッと音を立てて消し飛んだ。肉の焦げる臭いも残さないほど、その一撃は強烈だった。僕の両目は高熱に包まれて景色は段々と白飛びしていく。体の表面の感覚から無くなっていくのがわかった。
僕の全てが消し飛ぶ寸前、僅かに残った脳髄は僕という意識が別のobjectへ移行したとき、
そこにモモが、
「彼」が側にいてくれればと考えていた。
これが、理想郷なのか?
モモがまだモモではなかった頃。
ペットショップで暖かく小さな白い塊を抱き上げると、それは大きく身震いをして子供の小さな腕の中から出ていこうと必死になって藻掻いていた。
店員が暴れる彼をさっと取り上げて取っ手の付いたダンボール箱の中に移した。中を覗いてみると箱の底にはボロボロの布切れが敷いてあって、僕の様子を見た店員はこれはこの子が生まれたときから使っているお気に入りのタオルなんですと説明した。
タオルには剥げかけの大きな桃のイラストがプリントされていて、それを見た僕は咄嗟に覚えたての拙いカタカナを使って彼の名前の記入欄に「モモ」と書き込んでいた。
ダックスフントのモモはいくつかの疾患を抱えていたが、それらを考慮しても九年とかなり長く生きた。
けれど、モモのいない生活は僕の人生の深い傷となった。きっと放っておいたら破傷風に侵されてぐちゃぐちゃに膿んでいくのだろう。
モモが生きていた頃というのは温かく楽しい思い出のはずなのに。今ではそれらの記憶は彼を喪った喪失感を底上げするためのものとなっていた。
目を閉じると真っ先に頭に思い浮かぶのはモモの名前の由来になったくすんでほつれたあのタオルと同じようにボロボロになったモモの姿だった。
庭で動かなくなったモモの体をを燃したとき、僕ははじめて言葉を失うとはどういうことなのかを思い知った。あぁ、と酷く悲痛なか細い声が僕の喉から漏れて、生き物の焼ける臭いの中に掠れて消えた。それからしばらく僕の意識はモモと共に何処か遠くの空に消えてしまったかのようにぼぅっとしながら過ごした。
モモのいない最初の一年は酷い生活を送った気がする。声が出なくなって、何を食べても味がしないようになった。食べたものは全部吐いたし、夜も全然寝れなかった。寝れない夜は女々しく泣いた。
モモの成長はある時までインスタントフィルムで記録していたが、お金がなくて買えなくなったしまった。それはきっと惰性で。買おうとしなかったのは僕が怠け者だから、フィルムくらいなら買おうと思えば買えたのだ。なのに買わなくて……
僕はそうやって自分を責めに責めた。
携帯端末なんて触らないでもっとモモを撫でていればよかった。
モモが血を吐いたとき、少しでも気持ち悪いと思った自分を憎んだ。
モモを焼いたときなんで僕は泣けなかったんだろうか。本当は僕はモモが死んだことを軽んじていて、そのせいで涙が出なかったんじゃないか。
僕はモモがいなくなったことに本当に悲しみを覚えたんだろうか。
そういう気持ちが溢れてしまって、いつまで経っても止まらない。
今も。
モモの身体の弱さを微塵も感じさせない元気な声が聞こえる気がする。もう一度あの声で僕の背中を押してほしい。
チャリチャリというフローリングに爪が当たる音。優しそうな瞳。
「モモ」
僕は死んだはずなのに、
彼の名前を呼んでいる。
彼の名前を呼べていた。
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