[6]

 私がアパートに越してから、確か、半年ほど経った頃。

 その日、昼前に起床した私は、寝ぼけ眼、えらい空腹を感じた。起き上がり、台所に置いてある小型冷蔵庫を開ける。中は空。私は一度、大きく深呼吸をしてから、冷蔵庫の扉を閉めた。そして扉に手を掛けたまま、再び深呼吸すると、またぞろ扉を開けた。ひょっとしたら、今の開け閉めの間に奇跡でも起こって、中に食糧が生じやしないかと期待したのである。併し、冷蔵庫は空のままであった。

 <アニキにタカるか……> 私は思った。

 曩に述べた通り、その時分には散々と吉村へ纏わりついていた私は、なにかと言えば、お銭をせびった。吉村も、気前が好いというか、底抜けのお人好しというのか、私のタカりに対し、仏めいた溶溶たる態度で以て、金を恵えてくれたのであった。

 人並みの良心を持った人間であれば、そうそう金の無心を繰り返していれば、多少の申し訳なさや恥を覚えるものであろうし、もらう相手へは足を向けて寝れないくらいの恩義を感じて然るべきである。

 併し、そもそもが度外れの調子コキにできて居、復、度外れの忘恩気質でもあった私は、表面では調子好く、吉村のことをアニキ、アニキと呼んでおきながら、実際の処、然程の忠義めいた感情を持つ訳でもなく、言わばメンヘラ気質の迷惑人間が、依存相手に縋りつき、その相手がパンクするまで、善意から生気から、なにからなにまで吸い取ろうとするが如くの、誠、自分の都合第一主義的な態度でいた。往々にして、そうした人間は、人から好意を恵えられても感謝なぞせず、恵えられて当然だと開き直るものであり、かく言う私も、吉村から金を貰うことに、恥も、特別の感謝もしていなかった。

 <確か、アニキは今日、バイトが無えはずだ>

 私は室を出た。さて、階下の吉村の部屋へ往こうと階段を降りかけた処、階段の最下段に腰掛て煙草を吸う吉村の姿が見えた。

「おはようございます」私は階段を下りながら声を掛けた。

 吉村はゆっくりと振り向き、私の姿を認めてから「おお」と言い、立ち上がった。

「朝っぱらから早々、すみませんが、煙草を恵んでやっておくんなさい」

 私は煙草を強請った。

 おう、と言ってから、吉村はズボンのポケットからハイライト・メンソールを取り出し、一本を私に寄越した。

「えらいすみませんが、起きたばかりで、メンソールの気分じゃねぇんです。確か、アニキは金ピースも持ってましたよね? そいつを恵えてやってくださいませんか? 頼んます」

 そもそもが遠慮や恥というものを識らない私は、図々しく頼んだ。

「おう。ちょっと待っててな。丁度、見せたいものもあるんだ」

 そう言ってから、吉村は部屋に入っていた。

 一分も経たぬ裡に吉村は出て来、私にピースの煙草を一本差し出した。

 <ケチ臭えな。一本だけかよ。せめて箱ごと持ってきて、""君、好きなだけ持って往き給え"" とでも言えねぇもんかね。気が利かねぇ野郎だよ>

 と、そもそもがどこまでも稟性下劣な我がまま坊ちゃん気質だった私は、身の裡にて吉村を詰った。

 そして、ロクな感謝も述べずに、ピースをプカプカやり始めた――無論、吉村のライターで火を点けた――私は、吉村が片手になにかの紙を持っているのに気づき、先般に「丁度、見せたいものがある」と、吉村が言っていたことを思い出した。

「なんです、それ」私は訊ねた。

「起きてみたら、キッチンの小窓に差し込まれていたんだよ」吉村は言った。

 私は、吉村から紙を受け取って見た。安っぽい手触りの紙。そこに、なにやら文字が書いてある。



""

釣書

〇〇 〇子

昭和××年××月××日生

~~

""



 紙には、有り体な構成の釣書が、筆で書いたらしい流麗な筆跡で叙されていた。

「アニキ、お見合いでもしたんですか」

「してないよ。言ったでしょ、これは今朝、小窓に挟まってたの」

 私は暫時黙って、考えた。吉村も口を開かなかった。

「まぁ、お見合いがあったにしろ、釣書を人の家の窓へ突っ込むなんて、あり得ませんわな」

「うん」

「お見合いに関して、なにかしらの、というか、この釣書とその内容に関して、アニキには、心当たりも無いんですね」

 私は、居丈高な尋問口調で喋った。

 馬鹿の分際で、名探偵気取りをし始めたのである。

「うん」

「いたずらだと思うんですが」私は言った。「アニキ、この辺りに、識り合いはひとりも住んでいないんでしたね」

「うん」

「わざわざ遠出をしてまで、こんないたずらを仕掛ける物好きに、心当たりはありませんよね」

「うん」

「アニキ、他人から恨まれてる覚えはありますか」

「ないよ」

「御覧の通り」私は、周辺の木立をアゴでしゃくりながら言った「ここいらは人気ひとけがありませんわな」

「うん」

「識り合いが住んでるでもなし、こんな辺境のボロアパートへ、いたずらにしろ、こんな釣書の真似事みてえな紙切れをブチ込むやつなんてのは」私はピースをプカプカ吸いながら言った「気狂いか、馬鹿しかいませんわな。いずれにせよ、余程の暇人ですわな」

「うん」吉田は言った。

 その辺りで私は、吉村の声が顫えを帯びているのに気づいた。

 思えば、最前から吉村の声音は、平生のものとは違い、些か、シリアスな響きを纏っていた。

「アニキ、もしかして、この紙切れが怖いんですか」 


[7]

 またぞろ、うん、と言ってから、吉村は続けた。

 何でも、目覚めた時から、厭な感じがしたのだという。

「厭な気配で目が覚めたんだ」吉村は言った。

 吉村は蒲団から起き上がって、部屋をキョロキョロと見まわした。なにか、なにか、とんでもなく好くないなにかが、近くにある。それは、間違いなく、我が身に好からぬ転帰を齎すものだ。そんな確信めいた予感が、吉村の身の裡に出来した。

 不図、キッチンの方が気になった。吉村は立ち上がり、キッチンへと向かう。そこで、件の釣書を見つけた。見つけた途端、先ほどから感じていた厭な感じが、グッと度を増した。

 まるで海上から深海へと落された物体が、水圧によってグシャリと潰されるような、そんな悪意めいた圧力を、部屋中の空気から感じたのだという。

 そして部屋にいるのが厭になり、表へ――とは言い条、外に出ても悪寒は消えなかったのだが――出て、タバコを吸っている処へ、私が声を掛けた訳だった。


[8]

 <大の大人が、高高、紙切れ一枚で、ヒステリーを起こすんじゃねえよ、みっともねぇ>

 私は、身の裡で吉村を小馬鹿にした。実際、吉村が怯懦な態度を向けている件の釣書に、私はなんら恐怖も禍々しさも感じなかった。

「アニキは、これがスピリチュアル的な意味で怖いんですかね」

 私は、できるだけ内面の嘲罵を口吻へと乗せぬように注意しながら訊いた。

「それとも、こんな馬鹿なことをする気狂いに目をつけられたのが怖いんですかね」

「どちらかというと、前者かな」吉村は答えた。

「アニキは霊感があるんですか」

「ないよ」

「私見を述べますとね」

 私は言った。

「こんなハッキリとした物体を――つまりは、この釣書を――幽霊がわざわざ書いて持ってくるとは思えないんですがね」

「普通に考えればそうだね」吉村は言った「でも、理屈じゃないんだ。こんな厭な感じがするのは、生まれて初めてなんだ」

「アニキ」諭すような口吻で私は言った「安心してください。アニキには心当たりが無いんでしょう。怪談には因果ってものがあるんですよ。でも、アニキには、こんな釣書をブチ込まれる覚えなんて無い訳だ」

 私は大演説紛い、ボンボンと間抜けな見解を吐き連ねた。

「そりゃ、全部が全部、因果話で作ってたんじゃ、面白みが無くなりますからねえ。まったくの理不尽みてえな怪異を描いた作品ってのは幾らでもありますわな。でもね、それはあくまでも創作なんですよ。否、判りますよ。人間、まったく関りも恨みも無ぇ初対面の相手を、手前が悪意を持った時、たまたまそこにいたってだけの理由で殺しちまうような通り魔連中が、世の中には、ごまんと居まさぁね。でもね、今のシュチュエーションを考えて下さいよ、こいつは釣書だ。その場の勢いと偶然で以て渡すものじゃ無ぇんですよ。ハナ、対象を確と定めて、なるたけ綺麗な文字で以て、なるたけ相手に好感を恵える様な内容を書くものでさぁね。つまりはね、因果が前提に無きゃあ、書きゃあしないんですよ」

 私は続けた。

 相変わらず、話す内容は空虚、馬鹿丸出しであった。

「ここで、話は最初に戻りまさぁね。因果が前提とは言い条、アニキは、そんな因果には心当たりが無い訳だ。まぁ、アニキが自覚を持って無ぇだけで、思い込みの激しいストーカー馬鹿が、どこかでアニキに惚れ込んじまって、因果はあるのやもしれませんがねぇ。ちょいと話はズレますが、賢しらな哲学馬鹿が、ニヒル気取って、目的論的な世界の受け取り方を小馬鹿にしていようが、やっぱり因果ってもんは存在しているし、因果ってもんは、それ自体が意思なんですよ。 因果を遡れば、何かしらの大元に辿り着きまさぁね。実体ってのは、それひとつ切りなんじゃないですかねぇ。だって、そうでもなけりゃあ、延々と無限後退しちまって、切りが無ぇでしょう。で、世の万物は、その唯一の実体から滲み出てる枝葉みてぇなモンなんですよ、多分。実体が、ただただ己を拡大せんとして、枝とか根っこが伸びるみてぇに、その意思が敷衍した結果が、おれとかアニキとか、それから、この釣書なんですよ。そう言ってみりゃあ、眼前の、この世界そのものが一個の体で、存在するすべては、その体の細胞みてぇなもんでさぁね。となりゃぁね、全部、同じ腹から生まれた兄弟姉妹みてぇなもんで、怖がる必要も無いと思いませんか。一見、理不尽に見えることでも、実は調和の元に存在してるんですよ。だって、実体はひとつきりで、世の全ては実体の意思に因るもんなんですからね。仮令死んだ処で、どうで、もとの実体へ溶けて戻るだけなんですよ」

 得意げに話してはいたものの、私はそもそもが糞馬鹿であり、そんな人間に筋道を通した話し方ができるハズもなく、ハナ、話は支離滅裂の様相。 

 併し、そもそもが度外れの己惚れ気質にできて居た私は、空虚なお喋りを続ける裡、己が弁論へと強烈な自己陶酔をキメた。今さっき探偵気取りをした馬鹿が、お次は、手前の馬鹿哲学を馬鹿面で敍説する、馬鹿説教者へと変貌した。往々にして、頭の悪い糞馬鹿野郎に限って、中身も筋も無い間抜けな御喋りを、恥識らずに長々と、得意気に披露したがるものである。

「まぁ、逸れた話を戻しますがね、いやぁねぇ、これだけハッキリとしたフィジカルを持った釣書が存してる時点で、これをスピリチュアルの次元で考えるのは、なんともナンセンスじゃございませんかね。やっぱり、これはどっかの馬鹿か狂人がこさえたものなんですよ。まぁ、アニキは真面目な人ですからね、こうした病疾めいたオブジェクトには耐性が無いのやもしれませんが、その点、おれは根っからの無頼人間スーパー・リアル・アウトローですからねぇ、怖くもなんとも無ぇんですよ」

 私は無頼ぶって格好つける心積もり、なるたけ胴間声になるよう、意識的に発声を調整した。

「結句、こいつぁ、どこぞの馬鹿気狂いの仕業でさぁね。しかも、度外れに無知蒙昧で無教養ときてやがる。まぁ、字は綺麗な方ですがね。なぁに、人間が相手なら怖くはありませんや。暴力が通用するんですからね。生き物は殺せるってのが、万年通底する真理でさぁね。これをやった馬鹿が、アニキに危害を加えようとしたって、おれがそうはさせませんやね。ノシてやりますよ。まぁ、深い意味の無い、単なるいたずらだったとしても、やったやつは相手の反応を観察したいハズですしね、こんな紙切れ一枚を挟んで満足するとも思えねえ。多分ですが、復、やってくるんじゃないですかねぇ。大丈夫ですよ、アニキ。仮令、これをやった糞間抜け野郎が、その馬鹿面をぶら下げて、またぞろノコノコとやってきやがったら、そのドテっ腹を蹴破って穴を開けてやって、中にダイナマイトでもぶち込んで爆散させてやりますよ」

 悪ぶって乱暴な物言いをしたことで、私は喋りながら自分の言いに影響され、身の裡に自爆めいた苛立ちと興奮を感じた。

「曩も言いましたが、これをやった奴は、とんだ無知蒙昧で無教養な、馬鹿田舎野郎ですよ。釣書ってのは一方的に送りつけるもんじゃねえ、互いに交わし合うもんですわな。それに普通は、こんな安っぽい紙切れに書きませんぜ。もっと立派な用箋に文字を連ねるもんでさぁね。それに内容もひでぇよ。昭和××年生まれって。これじゃあ、とんだ皺くちゃババアじゃねえですか。この年代設定を、鬼ババ怪奇譚よろしく、恐怖の効果を狙って決めたんだとしたら、これを書いた奴ぁ、とんだ才能欠如のゴミ野郎ですぜ。そいつは、こういういたずらをしたことで、自身を才気溢れるマイスターかなにかの如く錯覚してるんでしょうな。一丁前、自分はアーティストなんだと、他の人間とは違う優れた何者かであるんだと、勘違いしてやがるんでさぁね。何者でもねぇよ、てめぇは。幾ら気取ってみた処で、てめぇは一生、何者にもなれねぇよ、馬鹿が。そう言ってやりたいですね。こんだけ教養の無い、糅てて加えてユーモアと怪奇のセンスが欠如した、分不相応に肥大しきった気色の悪い自意識を振り回してる馬鹿野郎なんぞは、安楽死塩梅でブっ殺してやった方が、世のため人のため、延いては本人のためでさぁね」

 自分の低能と性悪は棚に上げ、他人様へは、やたら無慈悲ノーマーシー冷酷判決ノーラブ・ジャッジメントを下す癖のあった私は、夜郎自大な悪口雑言を吐き出したのだった。


[9]

 とにかく、吉村の恐怖が取るに足らないナンセンスなものであるということを、私はクドクドと説いたのであった。そもそもが他人の苦しみや悲しみに対してひどく冷淡であり、およそ共感や共苦といった思いやりが欠如した、冷酷なポンコツサイボーグ気質だった私は、吉村の懼れの仔細をロクに聴こうともせず、一方的に切り口上をぶつけた。糅てて加えて、私の言いは一五一十空虚且つ支離滅裂、口幅ったく喋る本人だけが、己が声調に陶然としている有様だった。

「そうかなぁ」

 私と違って、まともな人間性を有していた吉村は、私の無神経な対応に腹を立てることもなく、そう述べた。

「そうですよ」

 吉村に釣書を返し、それから、改まった口吻で私は言った。

「ところで、生憎、昼飯の当てがございませんで……。どうか、哀れな子羊を助けると思って、昼飯代を恵えてやっておくんなさい。あ、それから、新しく本を購める分のお銭も要り用でして……。そちらも、頂戴したく存じます。どうぞ、アニキのお話につき合った弟分への褒美だと思って、男らしく、悠然たる施しをしてやっておくんなさい」

 転帰、私は吉村から5千円を手に入れ、ロクな礼も述べず、近所の中華料理店へと向かった。食後、近くの古本屋へ寄り、均一ワゴンの文庫本を、数冊購めた。


[10]

 その日の、20時頃だったと思う。

 私は、室にてラジオを流し、横臥しつつ読書をしていた。なんせ昔のことであるから、些末な点がボヤけてしまって、処々が不明瞭、こうして一々を思い出しつつ叙すのも、なにかと苦労しているのだが、確か、その時に読んでいたのは、メリメの怪奇小説集だったハズ。

 コンコン、とドアがノックされ、直ぐに「吉村です」と聞こえた。私は立ち上がってドア開け、吉村を室へと招き入れた。この頃には、吉村が我が室を訪うてくるのが一種の習慣めいたものとなり、私自身、それに対して不快感を覚えなくなっていた。

 吉村はアップルブランデーの壜と、グラスを二つ持ってきた。畳に座ると、吉村は言った。

「武座間君、申し訳無いが、今晩は泊めてくれないか」

 聞くと、件の釣書は灰皿で燃してしまったそうだが、今朝からつき纏う厭な感じは未だ消えず、それ処か、夜が近づくに連れ、度は増し、今では、漠とした錯乱の気配を含んだ、形容し難い恐怖へと変貌しつつあるという。

 <野郎のヒステリーほど、見苦しいものはねぇな。ホント、みっともねぇ野郎だよ。それに、急に泊めてくれだなんて、図々しいったらありやぁしねえよ。馬鹿が。人並みの遠慮ってものが無いのかね、コイツは>

 私は、平生の吉村からの温情をすっかりと忘れ、眼前で不安そうにしている彼のことを、心中にて嗤った。

 併し、曩にも述べた様に、私は、そもが紳士ジェントルメン気質であり、加えて心優しき人道主義者リアル・マーシー・ヒューマニスト且つ、度外れの慈愛に充ちた聖母ヴァージン・マリア気質の、聖人めいた処があるナイス・ガイだったので、吉村に対して「水臭いですよ、アニキ。困った時はお互い様ですよ。人間、助け合って生きて往くのが、本来あるべき姿でさぁね。一泊でも二泊でも、好きなだけ泊って往っておくんなさい」と、誠、騎士道にかなった模範的礼儀が発揮された、実に明明たる返答をしたのであった。

 復、その返答は、ここで恩を売っておけば、向後も金をタカり易くなるだろうとの、打算的を含んだものでもあった。

 ポトッと、天井からヤモリが落ちた。その時、目視できる限り、我が室には、誇張抜き、20匹はヤモリがいた。

「アニキ、御覧なさいな」

 私は吉村の持ってきたブランデーを強奪まがいに受け取り、自分の分だけを注いでから言った。

「変な紙切れがなんだって言うんです。この通り、ヤモリどもはピンピンしてまさぁね。こいつらは、素直な自然の表れそのものですよ。それが、元気に壁と天井に居座ってるんです。モーマンタイ。ノープロブレム。ドントマインド。ライフイズビューティフル。杞憂ですよ、杞憂」

 落ちたヤモリは、チラと我々に目線をくれてから、露聊かも慌てず、部屋の隅へと往き、そこに到着すると、ノタノタと壁を登攀し始めた。


[11]

 私は目を開いているハズだった。併し、目の前は黒一色。深々たる黒。黒、黒、黒。黒ばかりである。晦冥の裡、私は己が呼吸と心音の他、耳にしない。

 黒、黒、黒ばかりの世界、おそらく、私は立っている。呼吸音と心臓の拍動が感ぜられるということは、私には体があるハズ。だが、呼吸と心拍は、どうにも他人事めいたものに思えた。換言すれば、私には一切の身体感覚が無く、先ほどから知覚している気息と鼓動が、己がものだという確信が抱けなかった。

 黒、黒、黒の世界、認識主体も認識対象も、無かった。否、無論、その時の私は、というか、恐らくは私だろうそれは、黒色と、呼吸と、心臓の動きを ""感じて"" いたのだから、主体と対象は間違いなく存していたのだろうが……。

 読者諸賢には申し訳ないが、曩に散々、雨滴の如く繰り述べたように、私はそもそもが低能糞馬鹿である。だから、あの時、<私>が、<認識>した<アレ>について、仔細までをすべて点綴し、諸賢へと正確に伝わるように書き著す筆力なぞ、ハナ、持ち合わせていないのだ。

 いつの間にか、黒、黒、黒の世界に、吉村が出現した。否、ハナ吉村はそこに居、私に視力が生じたことで、初めて知覚できただけやもしれぬが……。そう、その時から、<私>は私になっていた。つまり、今、この文章を叙する私と、同じものになったのである。

 吉村は全裸で、呆っと突っ立っている。……否、これは吉村なのか? 精巧に出来た人形のようにも……。

 上から、陶器のように真っ白い巨大な手が降りてきて、吉村の頭をむんずと掴み、持ち上げた。

 私は<驚くという感情>を生じ、上を見た。

 恐らく、15メートルほどの大きさ、全裸の女が吉村のことを掴んでいる。女の顔は判らない。否、確かに、女には顔があり、表情も形作っていた。今、あの時の景色を思い出して、私はその表象の裡、女の顔形をハッキリと認識できる。だが、それが判らない。顔はあった、だが、それは顔ではなかった。

 この感覚を、諸賢にどう伝えれば好いのか、皆目判らない。

 女が口を開いて、吉村を食べた、頭から、吉村の頭が、ゴリゴリ、潰れ、というか、破裂というか、血がボトボト、女の口から、こぼれて、そうだ、口はあったハズなんだ、歯も、くちびるも、舌も、それなのに、それが、どういうものだったのか、あれは、そもが、口なのか、

なんにも、わからない。

 吉村が食べられて、私は、場違いな感想を、つまり、サトゥルヌス

<サトゥルヌスみてえだな……> そもそもが度外れに

サトゥルヌスみてえ、…さn、そもが度外れに低のうそうぼ

 サトゥルヌスみてええええええだなって思ったんだ

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る