強制結婚
ぶざますぎる
上
釣書(つりがき、つりしょ)は、縁談(お見合い)の時にお互いで取り交わす自己紹介(プロフィール)を載せた書面のこと。身上書(しんじょうしょ)と、同義語である。
――「釣書」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(日本時間:2023年6月1日)より引用
[1]
曩時、私は20代前半、えらいボロなアパートに室を借りていた。アパートは、木立に囲まれた人気の無い一角に在った。木造2階建て、風呂無し四畳半。上下に4部屋ずつあり、私は2階の端部屋に住んでいた。このアパートには、私の他、1人しか住んでいなかった。1階、丁度、私の部屋の対角に位置する端部屋、吉村という男が住んでいた。
吉村は背が高かった。そして、長身に合わぬ、えらい痩身であった。髪は肩まで伸び、いつもボサボサ。併し、全体の印象として、不潔感は無かった。吉村の顔は、いつも、髭と眉が綺麗に整えられていた。歳は、本人曰く、36。彼は、折り紙づきの親切者であった。
[2]
「変なのが居るけど、まぁ、悪いやつじゃないから」
アパートを借りる際、私は大家から、そう告げられた。曩に紹介した吉村こそが、大家の言う ""変なの"" であった。
アパートに越して直ぐ、私は挨拶のため、あらかじめ購めておいた菓子折を持参し、吉村の室を訪ねた。土曜の昼日中であった。
扉をノック――アパートにはインターホンが無かった――すると、「ほーい」という、なんだか間抜けな感じのする低い声が聞こえ、私が用向きを告げる間も無く、ガチャッと開錠の音がし、ドアが開けられた。
ヌウッと、吉村が顔を出した。私のことを認めると、「なーんの、ごようかな」と言ってから、何故か、わざわざ表に出て来、そのヒョロ長な体を私の前に現した。吉村の背後で、ドアが閉まった。吉村は、凝と私を見つめた。
<なんで、わざわざ表へ出てくんだよ。馬鹿か、コイツは。てめぇが顔と手だけを出して菓子折りを受け取っちまえば、それで互いに手間も無く済むだろうが、馬鹿が。 それにしても、無駄にでけえ野郎だな。喋り方も、なんだか魯鈍な感じだったし、こりゃあ、えらい間抜け野郎かもしれねえぞ。仮令、トラブルがあったとしても、この木偶坊が相手なら、上手いこと丸め込めそうだな>
と、そもそもが傲慢な他人見下し気質の私は、身の裡、初対面の吉村を嘲罵した。
とは言い条、私とて、人並みには自己演出の才を有していたので、そうした譏りは心中隠し置き、とりあえずは至極、常識的で快活な挨拶をすることにした。
「あ、えーと、2階に越してきた、あ、
私は可憐に緩頬しつつ、挨拶を捧げた。
「おーう。構わんよー。わざわざ、ありがとうなー。まぁ、よろしくたのむわー。一度、一緒に、飲もうなー」
吉村は、磊落な感じの返事を寄越した。
<誰が、てめえみたいな得体の識れねえ野郎と飲むかよ、馬鹿が。これが可愛い若い女だったらまだしも、てめえの様にヒョロ長い、ナナフシの化け物みてえな気味悪野郎と、親睦なぞ深めるもんかい、オロカモノ!!! てめえは己の身分を弁えろよ、身分をよ。馬鹿が!!!>
と、私は心中、吉村へ鬼の一喝を浴びせたが、そもそもが度外れに小心の
否、仮令、小心でなくとも、私は、そもそもがエチケット尊重主義の、折り目高な
そもそもが狷介な人間であり、群れることを好まず、すべて人づき合いは必要最小限度に止めておきたい、気高き
[3]
その晩、20時頃。私は、疾うに荷ほどきを終えた――大した荷物なぞ無かったので、その作業は暮れ前に終わっていた――我が室にて、ポータブルラジオを流しつつ、俯臥の姿勢で読書をしていた。
コンコン、とドアがノックされ、直ぐに「こんばんはー。下の吉村ですー。ご挨拶のお礼にきましたー。一緒に飲もうよー」と、例の間抜けな感じの低い声が響いた。
<はぁ? 面倒臭えな……>
私は身の裡で悪態を吐きつつ、起き上がってドアを開けに往った。
ドアを開けると、吉村が、莞爾とした笑みを面上に浮かべて立っていた。
「やぁー。武座馬くんの都合が好かったら、ちょっと飲もうよー」吉村は、右手にサントリーオールドの壜を、左手に2つのグラスを掲げて言った「どうかなー?」
<なんだ、この野郎。ちょっと挨拶に訪うてやったら調子に乗りやがって。慣れ慣れしいんだよ、馬鹿が!!! てめぇは、どうで寂しい独り暮らしで、他人様の温もりに飢えていたんだろうさ。だから、ふっと現れたおれに、つき纏いたいんだろうよ。まぁ、おれは可憐で控え目な乙女的性質を持つ、キューティーなシャイボーイだからよ、そこから出来するハニーな愛嬌と、愛くるしいマスコット的スマイルが、曩の挨拶の折に発揮されちまったもんだから、孤独でぶざまなてめえは、イチコロでヤラれちまったんだろ。でもな、こちとら、ハナ、てめえみたいな野郎と親睦を深めるつもりも、深めるための会話を交わす心積もりも、有りゃあしねぇんだよ。てめえみたいな足臭野郎が、おれのスウィートなプライベートに踏み込んでくるんじゃねえ、オロカモノ!!!>
と、そもそもが度外れに性悪であり、復、度外れの己惚れ気質且つ、度外れの自分免許体質でもあった私は、内心吉村へ怒声を浴びせた。
「え、あ、へへへ、好いんですかぁ、あ、そんな、気を使って、あ、お気を使っていただかなくとも、あ、へへ、えー、大丈夫ですけど、へへ」
とは言い条、夙に述べたように、私は度外れの小心者であったので、やはり心中の悪口を表へ出すことはできず、卑屈な笑みを顔面に生じさせ、吉村を室へと招き入れてしまった。
「あ、へへ、汚いですけど、えへへ、あの、まだ、掃除をちゃんとできてないんですけど、へへ、好ければ、あ、どうぞ、あがっておくんなさい」
お邪魔しまーすと言い、吉村は入って来、畳の上に坐した。
自分の脇にサントリーオールドとグラスを置き、部屋裡をキョロキョロと見まわした。私は、ラジオは流したままにし、先ほどまで読んでいた本を、部屋の隅に設置した文机の上へ片づけた。そこには、他10冊程の本が置かれていた。
「おー、武座馬くんは読書家かー。今は、何を読んでるのー」吉村が訊ねた。
<なんで、てめえに教えなきゃならねえんだよ、馬鹿が。教えてやった処で、どうなるんってんだ、間抜けが。どうで、無知無教養な細長バーバリアンのてめえなんかは、ロクに作家の名前も識らねえだろうが。となりゃあ、""●●って作家ですよ"" ""へぇ、識らないなー"" って塩梅の、詮の無い会話をして御仕舞だろうが。馬鹿が。仮令、てめえがおれの読んでいる作家を、生意気にも識ってやがったとするよ。だけどな、ハナ、おれはてめえと文学談義をするつもりなぞ、毫も有りはしねぇんだよ、馬鹿が。余計な口を利かずに、とっとと帰れ、オロカモノ!!!>
そもそもが度外れに、心の鎖国気質にできていた私は、吉村に対し胸中毒づいたが、曩に何度も述べたように、度外れの小心チワワでもあったから、そうした悪意を口に上せることはできず、「あ、へへ、これですか。えーと、あ、へへ、これは、あ、車谷長吉って作家の、小説です、ハイ。えへへ」と返した。
「あー、直木と三島を獲った人だっけー」
吉村は生意気にも、車谷長吉を識っている様子。
「エッセイは読んだ記憶があるよー。恥ずかしいことに、僕は、不調法者だからねー。芥川をやっと読んでいる程度だなー」
<
そもそもが、他人を見下すためのファッションとして本を読んでいた節があった私は、ハナ、間抜けで無教養なヒョロ長の馬鹿野郎だと見下していた吉村が、自分の読んでいる作家を識っていたこと、糅てて加えて、その受賞歴まで瞬時に述べてみせたこと、そして ""直木と三島"" という、なんとも通ぶった響きを纏った表現をしたこと、そのくせ、自分は不調法者だのと、生意気な謙遜をした挙句、""芥川をやっと読んでいる程度"" という、これ復、何とも洒落臭い物言いをしたのが、ひどく気に入らなかった。
<大体、芥川ってチョイスが洒落臭え。好きな作家は芥川です、なぞとほざく輩に、ロクなやつが居たためしがねえよ。芥川自体は素晴らしい作家だけどよ。どうで、芥川とか、あの辺の名前を挙げるやつってのは、一端の文学好きをアピールしたいが、売れっ子の現代作家を挙げたんじゃ、あまり粋ぶれねえってんで、読みもしねぇくせに、とりあえず有名な芥川とか太宰の名前を出しておけば、それなりに恰好がつくと思ってるサブカル馬鹿だってのは、相場が決まってんだよ。こういう手合いはすべてが浅はかなんだよ。いるよな、やたら文学文学ホザくサブカル馬鹿って。わざとらしい深刻な表情と口吻で以て、""ボクの人生には……文学しかないんですよ……"" とかスカしておきながら、実際の処、てめえの頭には性欲しか存在しねぇくせによ。そういうやつってのは大概、最終的に ""批評"" に往き着くんだよな。批評それ自体は立派な芸術だけどよ、そういう手合いの ""批評"" なんてのは、ロクなものがあったためしがねえよ。小学生の読書感想文もどきだったり、やたらと時事問題に関連づければ高尚だと勘違いしていやがったり、てめぇの意見を述べるダシに文学を利用してるだけだったりよ。そもそも何だよ、""好きな作家は芥川でございます"" って。気取った中学生じゃねえんだぞ、馬鹿が。恥を識れよ、サブカル馬鹿が。くたばれ!!!>
私が身の裡にて、そうした悪意の澱を沸騰させていた処、ボトリと、天井から畳へ、何かが落ちてきた。
「コイツら、いっぱい出るからねー。寝る時なんかも、結構、落ちてくるんだよなー」吉村は言った。
落ちてきたのはヤモリであった。実際、吉村の言う通り、このアパートには室の内外問わず、えらい沢山のヤモリがいた。私は、どちらかと言えば爬虫類は好きであったし、ヤモリが家守と書かれるほどの益獣であることも識っていた。
ここまで散々、己が心中の悪口雑言や偏見を書き連ねてきたから、読者諸賢は、私のことを性格が悪く、他人の痛みに鈍感な、我がまま坊ちゃん的人物として表象されているやもしれん。確かに、それは一面的事実。併し、一方私は、ヒト以外の命へは度外れにカインドネスな、
閑話休題、吉村を室に招じ入れた際も、壁と天井には、えらい数のヤモリたちが居、それが時折、ポトポトと落下した。落ちたヤモリは、まるで墜落の失態を目撃されたのを恥じるかのように、そそくさと部屋の隅に消えて往くのだった。
[4]
私は、心中散々、吉村のことを罵倒したが、この晩の酒宴を出だしに、爾後、彼とは昵懇なつき合いが始まったのだっだ。これには、私の俗まみれの打算が働いていた。
吉村はちょくちょく、私の部屋を訪うた。その度、酒や肴を持参した。持参する酒は、初日のサントリーオールドのように、そこそこ好い値段のするものばかりだった。加えて、彼はよく、食事や銭湯を奢ってくれるのだった。これは心底有難かった。アパートには、風呂が無かったのである。あまり金銭的余裕の無かった私は、吉村へ、タカりにタカった。
そもそもが誇り高き
併し、その一方で私は、合気道
ただ、吉村にも限度というものが存していたようで、ある日、私が風俗のお銭を強請った際には、「そういうのは、自分のお金で遊ぶものだよ」と、普段の間抜けな口吻はどこへやら、底冷えのするような声色で拒否したのだった。
そうした金銭的なメリットの他にも、吉村の能力に対する、投資的な狙いもあった。ハナ、私は吉村のことを、間抜けそうなヒョロ長野郎と馬鹿にしていたが、実際の処、彼は県のトップ偏差値の大学で数学を学び、更には、院で博士まで修めた秀才であることが、後に判明した。
頭の好い人間を側に置いておけば、なにかと役に立つ。その上、吉村は度外れのお人好しであったから、猶の事、親交は深めておくのが得策であると、私は判断した。
復、私は吉村の実家が、かなり裕福なのではないかと睨んでいた。先ず、博士課程まで往ける余裕があることは確か。それと、本人の言いによれば、吉村は正規の職には就かず、顔見知りの古書店で、たまにアルバイトをしているらしかった。そのくせ、曩に述べたように、吉村は私の銭湯の代金を、しょっちゅう、というか、そのほぼすべてを肩代わりした。これは並みの資金力ではできないことである。
それに、大学院まで往かせた息子の、フーテンめいた暮らしを赦すほどなのだから、その両親の精神的、金銭的余裕は、たいへんなものであろう。となれば、吉村との紐帯を強めれば、いずれはその両親とも繋がりができるやもしれぬ。つまり、強大な寄生の当てができるということである。それは、私の将来において、正に守護神めいた命綱となるであろう。
私は、こういった打算を、身の裡にて働かせていたのであった。併し、自己弁疏めいた言いになるが、そうした経済的な面を抜きにして、私は、吉村の優しく人好きのする人間性に絆されてもいたのである。たらればを語るのはナンセンスだが、仮令、吉村が大した金を持っておらずとも、そもそもが愛情乞食気質であり、復、ウサギ的な寂しがり屋でもあった私は、吉村に纏わりついていたと思う。
ハナ私は、散々、吉村を胸中にて罵倒し、
果ては、最初の行き腰めいたウルフ気取りはどこへやら、私は吉村のことを ""アニキ"" と呼び、みったくない舎弟面をカマしながら、やたらと彼につき纏うようになったのである。
[5]
併し、あの釣書が現れたことにより、否、おそらくは、あの釣書を送りつけたやつのせいで、そうした吉村との繋がりも、すべて失われてしまった。
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