力の限り蹴り上げた

 食事を済ませ、俺が風呂から上がると時間はもう夜の十時を三十分ほど過ぎていた。

 母さんと依莉愛は三人掛けのソファーに座ってテレビを見ており、俺は依莉愛側の斜めの位置の一人掛けのソファーに休む。


「さて、揃ったところで何があったか聞かせてもらおうじゃないか」


 先程までとは打って変わって真剣な表情の母さんである。

 世が世なら傾国の美女と謳われるであろうその顔の真剣な眼差しはそれはもう凄まじい威圧感を放っていた。

 その母さんを前に、依莉愛は俺、母さんの順に目を向けてしっかりとした口調で言葉を紡ぎはじめた。


 今日の放課後に、学校祭の買い出しを頼まれた依莉愛は俺を見送り、自分も鞄を持って言われたとおりに生徒玄関で人を待った。

 やってきたのは大垣おおがき康平こうへい。野球部に所属する中肉中背の同級生。


「待たせたかな。一条さんの買い出しに付き合ってくれって言われてさ。西町だったよな。よろしく」


 下品な笑顔に嫌気がしたが、学校祭の準備という名目だから従う他無く、依莉愛は渋々頷いて同行することにした。


「なあ、一条って最近よくウンコとつるんでっけどよ。何か弱みでも握られてる?」


 西町商店街に向かうバスでは大垣がしつこく絡んでくる。

 会話の内容は主に俺。


「さあ?」


 依莉愛は終始素っ気なく応じたという。答えるのも面倒だったのだとか。


「あのクソ、つまんねーだろ?」


 俺の陰口が続いて。


「俺なんてよ。こないだ練習試合でさー──」


 自分の自慢話へと続く。

 大垣がどれだけ優れた人間か。どれだけ素晴らしいことを成し遂げたとか。

 俺がどれだけゴミカスか。俺がどれだけ無能だとか。


「俺と依莉愛、もう仲良しだよなぁ。こんな買い出し、後回しにして遊びに行かね?」


 生返事して応じていたら、いつの間にか名前呼びされて、しかも、セクハラ的なお誘い。

 依莉愛の身体に依莉愛より低い背の身体を寄せて手を腰に伸ばそうとしていた。


「止めて」


 と、依莉愛は離れたが、手を回すのを諦めた代わりに距離を詰めて寄ってくる。


(き、気持ち悪い……)


 依莉愛は何とか距離をおきたい。それで───。


「ちょっと離れて。それと名前で呼ぶのやめて」


 嫌悪感をもはや隠せずにいた。


「へー。良いのか?それで……一条サンの態度、わかったよ」


 今度は下卑た笑みを浮かべながら大垣はスマホを弄り始めた。


 依莉愛にとっては苦痛でしか無かったバス車内での三十分。

 西町商店街に着いてから頼まれた買い物はしたらしい。


「買い出しはしておかねーと、怒られちゃ堪んねーからな」


 大垣は買い物は後ろから付いて歩くだけで荷物は持ってくれなかったらしい。

 買い物が終わったのは西町商店街について三時間を経過しところだった。

 それから商店街を歩き続けバス停と違うところに大垣は依莉愛を連れ出す。


「お、そう言えば、まだ畑中に頼まれているものがあるんだ」


 そう言われたら従わざるを得ない。

 それから西町を北西の方角に向かって二十分ほど歩いた寂れた公園。


(なんで、ここ?)


 公園に着くと依莉愛は警戒心を高めた。

 人気のない公園に一体何用で連れてきたのか。

 足を止めると、それに気が付いた大垣が依莉愛の腕を乱暴に掴んだ。


「ちょっと来い」


 荷物と鞄を持ったままだったから抵抗出来ず、依莉愛は大垣に引っ張られるがまま公園のトイレ裏に連れて行かれた。

 するとそこに先日退学した奈良なら勝義かつよしと見知らぬ男子が待っていた。

 そこに乱暴に放り投げられて地べたに尻を着くと男子たちがギラギラした目で迫ってくる。


「一条サン、お前が悪いんだぞ。分かってるよな?」


 大垣がヒッヒッヒと気色悪い笑いを披露して口にする。


「悪いがこれ、頼まれててね。お前を犯して堕とせってよ」


 依莉愛は怖くて後退ると奈良に足首を掴まれて引っ張られた。


「ヤッ!」


 とっさに奈良の腹に蹴りを入れた。

 するとゴツッ!と顔に頬に強い衝撃が走る。

 もう一人、名を知らない男子高校生に殴られた。


「あ、悪いな。可愛いお顔を殴ってしまったよ」


 一瞬頭がクラっとする。

 クソッ!と思い手に持った荷物を投げつけると男子高校生は衝撃で倒れた。

 今度は大垣が殴りかかってきた。

 避けきれずに頬に拳がめり込んだ。

 視界がぐらりとひしゃげて意識が飛びそうになるが、大垣がブラウスを乱暴に開くと薄黄色のブラジャーが露わになる。


「ヤーーーーーーーッ!ヤめろーーーーーーーーーッ!」


 できる限り大声で叫んだ。

 声にビビった男子高校生が公園近くに人の気配を感じて身動ぐ。


「うるせえッ!黙っとけよ雌豚ァ!」


 大垣は声を荒らげ、依莉愛の首を締めようと両手を細い首に手をかけようとする。

 手が空いた依莉愛は鞄で大垣の頭を殴って退かしてすり抜けたが、痛みで倒れ込んだ大垣に代わりに覆いかぶさろうとしてきた奈良の股間を力の限り蹴り上げた。

 依莉愛の脛がクリティカルヒットした奈良は激しい痛みに耐え切れずにのたうち回る。

 最後に追いかけてきた男子高校生に鞄を投げつけて公園の外に逃げ出した。

 パトカーのサイレンすら耳に入らない。

 依莉愛は場所も方角も分からず遮二無二に走り、とにかく公園から遠ざかった。


 気が付いたら外はすっかり真っ暗で街灯が煌々とアスファルトを照らしている。

 依莉愛は現在地が分からず、スカートのポケットのスマホを取り出して現在地を確認した。

 どうやら犯されそうになった公園から南に逃げてきたらしい。


「足、痛ッ……」


 靴が無い右足は靴下の踵が破れて傷ができていた。


「これじゃ、まともに歩けない……」


 情けなくて涙が出る。

 でも、とにかく帰ろう。

 そう思って家に電話するか、姉の聖愛さんに電話するか考え、俺のスマホに電話をしてメッセージを送った。


「まだ、サロンだよね……」


 それでも、不安から俺にそれからも電話とメッセージを何回も送った。

 その後は俺の知るところだという。


 だったら……。


「家か依莉愛ちゃんのスマホに電話がかかってきてるんじゃないか?」


 恵理子さんか聖愛さんか警察からか。


「あ、そうかも……スマホ取ってきます」


 依莉愛は脱衣所に向かってスマホを取りに行く。


「まだ、洗濯してなくて良かったな」


 母さんが独り言ちた。

 依莉愛は直ぐにリビングに戻ってきて「ママから電話が来てた」とスマホで通話をし始める。

 その横で母さんが立ち上がり、台所から透明なゴミ袋と買い物袋を一枚ずつ持ってきた。


「和音、これに脱衣所にある依莉愛ちゃんの制服と靴下を入れておいて。それと靴もこの買い物袋に」


 母さんに言われたまま、俺はゴミ袋に依莉愛の制服とブラウスと靴下を、買い物袋に片方しか無い靴を入れてリビングに戻る。

 依莉愛はもう話し終わっていてソファーに腰を下ろしていた。


「やっぱり警察に行かないといけないからってお姉ちゃんが迎えに来るって」


 何故か潤ませた瞳を俺に向ける依莉愛。

 警察から家に電話が来ていて、鞄や荷物を警察署で預かっているのだとか。


「大丈夫?」


 かなり走ってきたから疲労もかなりあるだろうに。

 あちこち傷が付いているし、殴られた痕だってはっきりと残ってる。


「行かないと学校祭の資材があるから、それに財布が鞄の中だし……何とか頑張るよ」


 声に落胆の色を乗せて依莉愛が言う。

 すると、ソファーから立ち上がった母さんが何も言わずにリビングから出て行った。

 母さんを目で追い続けた後に依莉愛が口を開く。


「何か、ごめんね。いろいろしてもらったのに」

「今日のことなら気にしなくても良いよ」

「でも、ウチ……やっぱり、和音にずっと酷いことしてた……本当にごめん」

「謝罪と気持ちは受け取るけど今謝るのは違うんじゃない?」

「ん……ごめん。いろいろありがとう。本当に。てか、和音のママだって怒ってるはずなのに優しくて申し訳なくなっちゃうんだよ」


 母さんは口は悪いけど、誰に対しても優しいんだよな。

 言い寄ってくる男には超絶厳しいけど。


「ああ、母さんはそういう人だから気にしないで良いよ」


 とはいえ、母さんが優しいのも口が悪いのも育った環境があってのものだ。そして、人柄なんだろうなと思う。

 母さんがリビングに戻ってくると手には薄手のカーディガンコートを持っていた。


「依莉愛ちゃん。寒いからこれを着ていきな」

「何から何まで何だか申し訳ないです」

「良いから良いから」


 申し訳無さそうに身を引く依莉愛に母さんは無理矢理コートを羽織らせる。

 うん。よく似合うな。流石、母さんに似た体型なだけある。


「はいっ」


 と、胸元のボタンを留めて姿見鏡の前に連れて行くと続けて言う。


「こうすりゃあ、乳のデカさが目立たなくなるからな。今は髪も短いしスッキリ見えて良いだろ?」

「……ありがとうございます」


 依莉愛がコクリと頷くと、ちょうど聖愛さんが迎えに来た。


 ドアチャイムが鳴ったので俺が出て鍵を開け、三人で玄関に行くと聖愛さんと依莉愛の母親の恵理子さんが玄関に入る。


「どうも、すみません。娘がお世話になりまして、ご迷惑までおかけしておりますのに……」


 恵理子さんが深々と頭を下げる。


「いえいえ。こちらこそ。息子が世話になっておりまして……困った時はお互い様という言葉もあるくらいですから、どうか気になさらずに」


 母さんが笑顔で応対する。


「まあまあ、時間も遅いから早めに行こう」


 聖愛さんが言う。

 ここから西警察署は車で二十分から三十分くらいかかるんじゃないか。

 夜も遅いし女性だけなのだから行くなら早いほうが良い。


「私もそう思う。今日のことで気になることがございましたら聖愛さんを通してで良いですから、まずお急ぎいただいたほうが宜しいかと」

「そうですね。依莉愛がお借りした服をお返ししなければなりませんから、お礼はその際にさせてください」

「お気になさらずに」


 そうして依莉愛を送り出して、その後はいつも通りに勉強して普通に寝た。

 翌日は通常通りにサロンを手伝ったけれど、聖愛さんが来られず、なかなか忙しい一日になった。


 さらに次の日の日曜日は聖愛さんもサロンに来たし、週明けの月曜日には依莉愛の姿を教室で見ることができた。

 俺の伺い知らないところではいろいろあったのかもしれないけれど、とにかく、その後は平穏に過ごしている。


 火曜日には聖愛さんと依莉愛と恵理子さんが家に来て母さんの服を返したし、その後は特に依莉愛に対するイジメっぽいものもない。

 その後、大垣は退学処分となり、大垣をけしかけた畑中は停学期間が一週間で済んで週明けには登校を始め、学校祭の準備に参加しているらしい。

 らしい、と言うのは俺は母子家庭であり家業サロンの手伝いという名目があって学校祭の準備には参加していないからだ。

 依莉愛は学校祭の準備という名目で残ってはいるものの、イジメには遭っていないが孤立はしていて、作業をすることがほぼない。

 こないだの買い出しで酷い目にあったというのもあって頼みにくいというところもありそうだ。


 忙しい日々というのはあっという間。

 十月が終わり、間もなく学校祭が始まろうとしていた。

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