俗に言うお姫様抱っこだ

 一条さん、改め、依莉愛を名前呼びをしてしばらく。


 中間テストを無事に終えて、今日は金曜日。

 テスト勉強期間で中止されていた学校祭の準備が今日から再開する。


 依莉愛を名前呼びした日から、依莉愛に対するイジメは小康状態となっていた。

 この高校は腐っても進学校だから成績を落とすわけにはいかず、しかも三年生では成績別クラスもあることからテスト勉強を頑張る生徒が多い。


 クラスの生徒達が学校祭の準備のために昼食を摂り始める中、俺は家業の手伝いアルバイトがあるからと席を立ち帰ろうとしていたその時。


「一条さん」


 俺を呼ぼうとした依莉愛が俺の席の近くでクラスの女子に呼び止められた。


「ん……何?」


 依莉愛はその女子へと振り向くと何の用かと聞き返す。

 ここ数ヶ月では珍しく依莉愛に話しかける女子だということが気になって俺は一瞬足を止めた。

 悪いと思ったけど盗み聞きってヤツだなこれは。


「あのね。これを西町に行って買ってきてほしいんだけど、皆、作業があるから手が離せなくて……」


 手に持つ紙をおずおずと差し出す。


「いつまでに?」

「できれば今日中が良いんだけど……帰りが最終下校時間に間に合わないなら明日で良いけど」


 依莉愛は女子から紙を受け取って、紙を見る。

 メモかな?


「布材……」


 女子に顔を向けるとメモの内容を小さな声で復唱する。


「どうしてこれをウチに?」

「んー……手が空きがちな一条さんにお願いしたかったの……一人で行かせるわけじゃないから、お願いします。それと、一緒に行くクラスの子が行くみたいだからその人が来るまで生徒玄関で待ってて欲しいの」


 そう言われて依莉愛は気が進まないながら渋々と了承した。

 依莉愛が立ち止まっている俺に気が付いて一瞥すると「面倒くさいことを頼まれた」と視線で訴えてきたが、俺はバイトがあるからと一人で教室を出る。


 サロンに着いて、俺は今朝作ったお弁当を食べる。

 それからフロアに出て仕事に励んだ。


 俺は仕事中に、何かを頼まれることはほぼ無い。

 長いこと母さんの仕事を見ていたこともあるし、戸田美容院があったときには歩叔母さんに教わったことが多い。

 特に母さんは歩叔母さんのお弟子さんみたいな感じだったし、実弥さんは俺と一緒に歩叔母さんに教わったことから、次に何をするのかを言わなくてもよく分かる。

 だからお客様の対応を始めたときにはいつ何がどこで必要になるのかをプランしてその通りに道具を置いたり施術の準備をする。


「美希さん、置いてきまーす」

「和音、サンキュ」


 母さんのことはフロアでは母さんとは呼べないので美希さんと呼んでいる。

 顔が似ているから「姉弟ですか?」と訊かれることが多いけれど親子なんですよね。

 母さんは今年で三十五歳。

 十七歳で妊娠して十八歳になった直後に俺を産んでいる。近年でここまで若い母親と言うのが非常に稀なのだ。

 それでいて見た目も極めて若々しい。

 俺の母親に見えないというのは現代社会においては当然のことである。


「聖愛さん。これをお客様に」

「ありがとう。和音くん」


 そう言って手渡したのはヘアカラーチャートだ。

 色を決めてもらったら聖愛さんの進み具合を見つつ薬剤の準備をする。


「和音くん、何から何までほんと助かるわ」


 聖愛さんの作業に戻る傍ら、今度は実弥さんの準備に取り掛かる。


「ヤぁんッ……アイくんって鬼よねぇ…ちょっとくらいサボらせてくれてもいいじゃなーい……?」


 大きな胸を俺の身体にドンとぶつけて愚痴られることもあるけれど「じゃあ、あれ、よろしくね」とニコニコしてくれるので、頑張ってもらえるならと笑顔で送り出す。

 実弥さんの準備を終えると聖愛さんの手が空くので、次のお客様を案内する。


 そういった感じでサロン・ド・ビューテは今日も絶えずお客様がやってきて仕事の手が空くことがなかった。


 仕事を終えて閉店作業の前にスマホを見たら、依莉愛から何通ものメッセージと複数回の着信が残ってた。

 最も最近で数分前の着信。

 俺は依莉愛に電話をかけてみた。


『あ、やっと……』

「ごめん。仕事で……」

『分かってたけど、怖くて電話しちゃった』

「何かあったの」

『……うん』


 受話器から風の音や通りゆく車の音が聞こえる。


「あれ?依莉愛って外?」

『外だよ』

「歩いてるの?」

『そうだよ』

「どこ?」

『場所、わかんない』

「信号に住所書いてない?」

『南町二丁目って書いてある』

「夜も遅いし迎えに行く?終わるまでまだ少しかかるけど」

『うん。わかった。できれば早く来てほしいなー……』

「わかった。頑張ってみる」

『ごめんね』

「うん」


 電話を切ってフロアに戻ると母さんが「どうしたんだ?」と訊いてきた。


「今さ、依莉愛から電話が来て一人で南町二丁目あたりを歩いているみたいなんだよ」

「依莉愛ちゃんが、和音に電話してきたの?聖愛ちゃんにじゃなくて?」

「そう言われたらそうだ。何でだろ?」


 訊いてみるか。


『聖愛さんには言ったほうが良い』


 メッセージアプリで依莉愛に確認。


『言わないで』

『わかった』


 送信したメッセージは直ぐに既読がついて返事が来た。


「聖愛さんには言わないでいて欲しいみたいだよ」

「そりゃそうだよなぁ。でなきゃ聖愛ちゃんにも連絡が行ってるはずだから」


 母さんはそう言うが、それで良いのか。

 俺には分からなくて何も言えないでいた。


「やることやって急ぐぞ」


 それから十数分足らずで閉店後の作業を済ませて母さんの軽自動車で依莉愛を迎えに向かった。


 依莉愛は三丁目の交差点近くにある児童公園に居た。

 ここはコンビニが近く街灯も多いから夜でも比較的治安が良い。

 その公園のベンチに依莉愛は胸元を押さえて座っていた。


「ごめん。遅くなったけど、何があったの?」


 声をかけるとボサボサの髪の毛に右手でブラウスの襟をぎっちりと掴む姿。

 靴は片方が無くて持っているはずの鞄がない。

 頬には殴打痕があって脚には所々に擦り傷が見えた。

 ブレザーやスカートには一見して痛みは見受けられないが土埃の汚れが酷い。

 母さんが路上に車を停めて待っている。


「和音ッ……ごめん。ごめんね……」


 突然、謝りながら彼女は泣き出した。

 右手はブラウスの襟を握り、左手は膝の上で拳に力を込めて。

 ふるふると震えて大粒の涙をぽたりぽたりと膝に零す。


「俺に謝られても、何もされてないからさ」

「したよッ!ウチ!和音にたくさん酷いことをッ!……なのにッ」

「まー、ここにこのまま居ても怪しいだけだから。母さんがいるから車に行こう。俺の家に連れて行くけど良い?」


 依莉愛は何も言えずに頭を垂れた。

 靴の無い右足は靴下がボロボロで破れているし踵に血が滲んでいるみたいだった。

 これで歩かせるのは忍びない。

 俺はベンチに座り依莉愛に近寄って「ごめん。良いかな?」と伺いを立て、依莉愛がコクリと頷いたのを見て膝裏と脇に腕を差し込んで持ち上げる。


 俗に言うお姫様抱っこだ。


 右手はブラウスの襟を抑えているから、左手に力を入れて俺にしがみつく。

 よく見たらブラウスのボタンがほとんどない。

 ブレザーの2つのボタンの内、ひとつがない。


「依莉愛、本当は聖愛さんに迎えに来てもらったほうが良かったんじゃ……」


 何かしらの犯罪に巻き込まれでもしたのだと俺は思って訊いた。

 こういう状態なら俺を頼るんじゃなくて聖愛さんを頼るべきだと。

 それなのに依莉愛は頭を振って


「和音のことでいろいろあったから言い辛い。それはもちろん和音にも」


 と言った。


「……でも」


 依莉愛は俺の顔を見上げて言葉を繋ぐ。


「お姉ちゃんに言うよりも和音のほうが今のウチには頼りやすから……」


 そう言って顔をそらして俯いた。


 車の横に着くと俺が依莉愛を抱っこしているのを見て運転席から降りてくると後ろのドアを開けてくれた。


「い……依莉愛ちゃん、大丈夫?」

「はは……は……とりあえずは」


 依莉愛を後部座席に置くと母さんが依莉愛の姿をジロジロと見る。


「大丈夫には見えないけどさー。まあ、仕方ない」


 運転席に母さんが戻り、俺は後部座席のドアを締めてから助手席のドアを開けて車に乗り込んだ。


 公園から家まで車で五分足らず。家に着いた。


 家に入ると至る所をきょろきょろと目線を動かす依莉愛。

 何をするにもビクビクとして怖がっているみたいだ。


「その辺に適当に座っててくれよ。風呂の準備をするからさ。飯は和音が今準備する」


 というのが我が家のルーチンだが、それは客人が居てもかわらないらしい。

 家の晩ご飯はいつも軽めだから依莉愛には物足りないかも知れないけれど、その時はデザートを適当に出して腹を膨らませてやればいいか。


 先に風呂の準備が終わる。


「下着以外の着替えは用意したから依莉愛ちゃん、風呂だ。風呂はこっちだ」


 母さんがリビングに戻ってきて依莉愛を風呂に連れて行った。

 しばらく経っても母さんと依莉愛が戻ってこないので一緒に入ったのかも知れないな。


 二人が風呂から上がってきた。

 俺は食事を火にかけて温めたものを出した。


「夜にパスタか。こういうのは久し振りだな」

「今日は依莉愛が居るからね。こういうほうが良いかなって思って」

「良いんじゃないか?たまにはさ」


 母さんはパスタをフォークで巻き取るとぱくりと口の中に頬張った。


「ん。んまいッ」


 母さんは美味しそうに食べる。

 顔がなまじ可愛いだけに破壊力は抜群だ。


「久し振りって、いつもは夜ってどうされてるんですか?」


 依莉愛が母さんに恐る恐る質問する。


「ああ、いつも仕事が終わってから食べるから今日よりずっと晩ご飯が遅いんだ。それで軽めのものが多いんだよ」

「そうなんですか」

「ん。白いご飯もパスタも晩に出るのは珍しい。炭水化物は次の日に残る感じがして私があまり食べたがらないのもあって、和音が気遣って食物繊維とタンパク質を中心に軽めのものを作ってくれているんだ」

「へー、それでお弁当もあんなに健康的なものだったんですね」

「そう。だからウチで一番食べるのは朝なんだよな」

「それは珍しいですね。ウチだと朝ご飯が軽めで晩ご飯にしっかり食べますから」

「普通の家はそうなんだよなー。ウチは私がこういう時間で仕事してるから和音が私に合わせてくれてるんだよ。おかげでこの年齢トシでもシワがなくてさ」


 とは言うものの俺は食事でどうするべきなのか考えたらやっぱ晩ご飯を減らすかなくしたほうが身体への負担が少なくて良いんじゃないかって思ったんだよね。

 肌の手入れだって母さんは欠かしてないし、美貌を保つ努力は怠っていない。


「年頃の男子高校生には物足りないような気がしないでもないけどな。もっと食わせて肉をつけたほうがいいんじゃねーかって思うんだけどさ」


 母さんがそう言うと、依莉愛は何か思い出したようで頬が朱色に染まった。


「あの和音って意外と筋肉があるっていうか細いのにガッシリしてて固くて……」

「ん?もう裸を見せ合う関係にでもなったか?」


 依莉愛が何かを思い出しながら口にすると、母さんがニマニマした顔をして厭らしい視線を依莉愛に向ける。


「あー……いや、そうじゃなくて……さっき……その……」


 視線が定まらない依莉愛がドギマギして答えに困っているが、母さんの下卑た笑みで更に追い打つ。


「さっき?あー、抱かれた時か?どうだった?良かった?お姫様抱っこなんて大きくなったらされないもんなぁ」


 依莉愛は降参して顔を俯かせた。

 その頃には皿にパスタは残っておらず、二人とも完食していた。

 母さんと依莉愛がじゃれあっているうちに食べ終わっていたのか。

 俺は急いで食べ切って、食事の後片付けを済ませた。

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