春 蜜柑 風

 時は江戸幕府が倒される寸前、尊王攘夷派が我が物顔で天下の往来を闊歩している時代。街中では「ほらえぇじゃないの』と狂ったように叫び回り踊り狂っている様が散見されている姿を、ゲンナリとした顔で蕎麦を啜りながら見ている男の姿があった。


 その男の名前は、藤田五郎。まだ明治の世に入る前までは、それこそ立派な志士の身ではあったものの、今となってはしがない薬売りとして各地を行脚するばかりである。


「ご馳走さん」


「はい、おあいそ。十六文ね」


「親父殿も大変だよな。こんなんじゃ商売になんねぇだろ」


 五郎は顎先で目先の光景を蕎麦屋の親父に向けさせる。その先では、男は女の着物を身に纏い、女は男の着物を身に纏うといった奇抜な集団が口々に『えぇじゃないか、えぇじゃないか』と半狂乱に叫びながら町内を闊歩している。


「ったく。春だって終わったばっかだってぇのに。あぁいうのが出るのって春先ってのが相場ってもんじゃねぇのか?」


「まったくだよ。こっちも薬なんざろくに売れる状況じゃないぜ」


「互いに苦労しやすな。そういえば……」


 蕎麦屋の親父が屋台の下から何かゴソゴソと取り出そうとする。しばらく経って、親父が取り出してきたのは一個の蜜柑であった。


「おいおい。どうしたんだいそりゃ」


「客の一人が忘れて行ったのよ。兄さん、苦労してそうだから一つあげるわ」


「受け取れるかい。そんな誰かが置いてった蜜柑なんざ」


「まぁまぁ良いから良いから。これは、俺からの気持ちってことで」


 そう言いながら蕎麦屋の親父は、無理やり五郎の手に蜜柑を握らせまるで追い立てるかのように屋台から五郎のことを追い出して行った。五郎としてはもう少しゆっくりしていきたかったものの、追い出されたのじゃ世話がない。仕方がなく居住いを正して、薬の入った箱を片手に担ぎながら街の中を歩き始めた。


 季節は夏に入る一歩手前まできていた。ここ京都も、そこそこに避暑地ではあったものの、今年の夏はいかんせん足が速いようで、歩くたびに汗が額から滲み出るようだった。


 京都の街も、今では街の連中が半狂乱になって踊ってはいるが、その治安自体もまったく良いとは言えない。最近になりこの街に入ってきた幕府方の新撰組が攘夷志士相手に戦争を仕掛けようと今まさに陰で蠢いている真っ最中だった。先ほどの『えぇじゃないの』も、彼らが一抹に抱えている不安の体現と言えるのかもしれない。


「あぁあ。今日は薬一個売れる気やしない、まったく。尊王攘夷だの企てる輩なんざ片っ端から切り捨ててやりたいぜ。まったく……」


 五郎はそう言いながら、先ほどの蕎麦屋の親父からもらった蜜柑を手に皮を剥いて中身を食べようとした、まさにその時だった。


 五郎の手が止まる。顔をしかめ、目の間に皺を寄せて剥いた蜜柑の皮を凝視する。


「……ハッ。まったく、喰えない親父だこと」


 そう言いながら、蜜柑の中身を食い潰し、剥いたその皮を懐に収めると足早に京都の街を足早に駆け出して行った。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「新撰組だっ! 誤用改であるっ!」


 京都の三条橋木屋町の池田屋にて、亥の刻に新撰組は、池田屋にて会合中の長州藩・土佐藩・肥後藩等の尊王攘夷派志士を殺害、捕縛する。戦闘は激化し、攘夷派の半分は戦いの末死亡、残りは捕縛、そして一部は逃走に成功しており、それが新たな幕府向けての反乱分子を作り出したのはいうまでもない。


「それにしても、土方さんのおかげですね。ここ京都で放火を企てていることをしれたのは」


 そう答えるのは、顔を血で染め上げ刃先のかけた加州清光を片手に持っている新撰組一番隊隊長、沖田総司。そしてその言葉を無言で聞いていた池田屋の二階の窓からぼんやりと月を眺めている、右手に和泉守兼定を携えた新撰組副長の土方歳三。


「でも、これで新撰組の名前は世に広まるはずです。京都大火災を食い止めることに成功したんですから」


「……俺たちの目的は、名前を広めるわけじゃねぇ。攘夷志士とかいうクソがやろうとしていることを食い止めることが俺たちの仕事だ。そこのところ履き違えるな」


「あ、すみません……土方さん」


 平心平頭で謝る沖田。こんな優男にすら見えない彼だが、戦場では鬼のように人を斬るというのだから人は見かけで測りようがない。そして、同じように。普段は人畜無害な様相をして、街から情報を集め、新撰組になくてはならない情報網を築き上げている功労者だっている。


「土方さん。他はあらかた捕まえておいた。どうせ死罪だろうが、まぁ。手柄っちゃ手柄ってことで」


「おう。ご苦労だったな斎藤。いや、藤田五郎っていうべきかな?」


 土方の向けた視線の先。そこにいたのは、二人と同じく体に返り血を浴び、右手にはべっとりと血に濡れた鬼神丸国重を振い、鞘に収めている藤田五郎、基、新撰組三番隊隊長の斎藤一の姿があった。


 斎藤一、こと藤田五郎にはとある任務があった。それは、この京都に潜伏している幕府方の人間と連携をとり、今回京都大火災を引き起こす黒幕がどこにいるかを炙り出すというのがあった。土方は、今回の件で攘夷志士から京都で大火災を起こす計画があるということを拷問した上に知ってはいたが、肝心のどこに潜伏しているかまでは聞き出すことができなかった。


「それで、今回はどんな口八丁手八丁で聞き出したんだ。斎藤」


「いや何。ただこの街のらりくらりして蕎麦食ってたら気づいたんですよ」


「……ハッ、お前らしいっちゃお前らしいか」


「最も。この蜜柑のおかげっちゃおかげですかね」


 そう言って懐から取り出したのは中身のない、皮だけになった蕎麦屋の親父からもらった蜜柑。その蜜柑の皮にはある一文が彫られていた。


『テキ、イケダヤニアリ』


 これが、新撰組に送られた重要な文の一つだった。 

 

「今度からもっとわかりやすいのでおねがしますよ、土方さん。せっかくの情報落としちまうところだった」


「こうやって裏で色々手引きしないと、あいつらは鼻が鋭い。すぐにバレる」


「はぁ……慎重というか、几帳面というか」


 同じく土方の隣で、池田屋の窓の淵から身を乗り出し同じく夜空に浮かぶ月を仰いでいる。


「なぁ、土方さん。俺たちはいつまでこんなことをすればいい。潰しても潰してもウジのようにあいつらは出てくる」


「……」


「世の中は変わるだろう、間違いなく。そして、その場所に俺たちの生きる場所はない」


 先日見た光景を斎藤は思い出す。半狂乱で騒ぎながら踊り狂う町民、そしてそれをただ傍観しているだけの人々。世の中は確実に代わりつつある、そしてそれを多くの人が望んでいる。新撰組としてのあり方は、あくまで現状を守ろうとする行為に過ぎない。しかし、それに果たしてどんな意義があるというのだろうか。


 自分たちに、存在意義はあるのだろうか。


 そんな斎藤の問いに対し、土方は静かに語る。


「……もし。俺たちが、ここでこいつらを抑えていなけりゃ、大勢の死人がでていた。お前のいう通り、時代は節目を迎えるのかもしれない。だがな、そこに幕府があろうがなかろうが、俺たちの『誠』の名の下に無垢の民に犠牲があってはならねぇ」


「……」


「俺たちがやってることはそういうことだ。今更迷ってんじゃねぇ、士道不覚悟と看做すぞ」


「……覚えておくよ。土方さん」


 そう言いながら、土方は沖田を連れて池田屋の二階を離れていった。手元には皮だけの蜜柑。それを池田屋の窓から放り投げる。風にのって飛んで行ったそれは空高く舞って京都の闇の中へと消え去っていった。


 時代は変わる。


 時は流れる。


 一時の嵐のように、動乱の時代を経て人々は流されて行く。


 幕府は倒され、新政府が現れ新しい時代の先導者として成り代わった。


 斎藤の行方がどうなったか、それについては詳しく書かれていない。ただ、一つ話が残ってるとすれば、ある時、神道無念流有信の前で一人の老人が子供に置かれた蜜柑を相手に竹刀で突き技を教えていたところ、その老人は置かれた蜜柑を竹刀で一突きで貫いたのだとか。


 そして、斎藤の墓は現在。会津若松市の阿弥陀寺葬られたとされている。

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