犬 飛行機 うどん

 北海道という土地に来たのは、今の主人が私のことを迎えにきてくれた時以来の出来事だった。あの時の主人の嬉しそうな顔は、三年経った今になっても忘れることはない。普段は仕事で強張った表情をしていて、それが家でも崩れることのない彼が、あれだけ表情筋を緩ました姿を見たのはあの時が最初で最後だろう。


 さて、前述通り。私たちは現在北海道に来ている。主人が借りたレンタカーの助手席に座り、軽く開けた窓の外から香る牧場と牛糞の匂いを目一杯に嗅ぎながら、車は信号のない道をまっすぐ走ってゆく。


「少し休憩にするか、カオル」


 主人の言葉に二つ返事で答えた私は、途中で止まった牧場へと足を運ばせる。牧場は酷くのどかで、東京での煩わしい喧騒と汚い空気の匂いがまるで嘘のように浄化されていると思った。そして、そこで暮らしている牛や羊も実に幸せそうで、物珍しそうに彼らがこちらに鼻先を摺り寄せに来たときは、少し怖くなって私は主人の後ろに隠れてしまった。


 再び、車は北海道の長い道を走らせる。


 今回東京から北海道に足を運んだのは、私の旧家を訪ねるためだった。別に私としてはどちらでも構わなかったが、私の声など一つも聞かずに主人は一方的に飛行機の予約をとって北海道へと行く気満々だった。どうにも、主人曰く一度だけは挨拶はしておきたいから、という理由と何より久しぶりに入った長期休暇で遠出をしたかったからなのだとか。


 結局、主人は私のいうことは全部無視するのよね。なんて、文句を一つ思いつつも普段の彼の姿が大好きだから黙ってついていっているのである。


「カオル、少し寄っていっていいか?」


 主人の言葉に私は無視をする。どうせ何かいったところで主人が何か決めたことを変えたことはなかった。きっと今回だって無駄だろう。


 そう言って、主人がやってきたのはとても大きなドーム状の建物だ。流石にここが目的地というわけではない。だが、その建物の姿を見た主人はひどく興奮していたようだったが、私は一切興味がないと言わんばかりに車のドアに顔を乗せて退屈そうに窓の外をぼんやりと眺める。


「今日勝ったら、うまいもん食わしてやるからな」


 そう言って主人は車を降りて外へと出ていった。こうなったら二時間は帰ってこないだろう。そして、主人の言うことは決して当てにはならないと言うことだ。


 と言うのも、ここは馬の順位を当てることでお金がもらえる場所らしい。主人はそれを趣味と称しているが私から見れば散財するだけの悪癖のように見えてならない。だが、負けて悔しい思いをしてもまた次へ、次へとお金を落としてゆくのはもはや何かに取り憑かれていると言っても過言ではないだろう。かく言う私は、そう言う類について視えなくないわけでもないが主人には絶対貧乏神がついているとみて間違いない。


 そして、主人が車から降りて二時間。


 普段から顔の表情筋が強張っているのにも関わらず、いつも以上に余計に強張らせて帰ってきた主人は無言で車のエンジンを回す。おそらくだが、結果は散々だったのだろう。


「……今日。車中泊にしたら……」


 その言葉に流石に私はキレて抗議の声を上げた。


 北海道二日目。


 今日こそは寄り道なしで目的地に向かうはず。普段は窓の外で景色が変わってゆくのを目で追っている私も流石に今日ばかりは主人のことをじろりと睨みながら監視している。ちなみに、昨日は車中泊ではなく、しっかりとホテルでゆっくり休むことができた。


 車は、北海道の厚真町というところまで進んでゆく。ここまで進んでくると商業施設などは一切ないまさに日本の残された未開の土地と呼ぶに相応しい光景が広がってゆくばかりである。こんな光景で、主人はしっかりとたどり着くことができるか心配したが、目的地は車に備え付けられたカーナビがしっかりと音声案内で届けてくれる。


 一面緑色の世界、季節は夏だが東京に比べればこんなにも寒暖差があるのかと、衣替えをしたばっかりの私にとって体が少しだけびっくりしているのがわかる。そんな気配を少しは感じ取ったのだろうか、それとも昨日二時間も放置したことを憂いてのことなのだろうか。主人は事細かに私に対して気を遣ってきてくれる。


 そんなに気を使わなくても良いのに。と、普段は思うところだが、今日ばかりは主人の優しさに甘えよう。


 目的地に近くなったことをカーナビが音声で案内する。たどり着いたそこは厚真町の中でも外れの方にある大きな一軒家だった。


 そして、その家の外には老夫婦が主人と私のことを出迎えてくれていた。


「加藤さん。すみません、出迎えまでしていただいて」


「良いんだ良いんだべさ。大事な娘っ子迎えにいくんだ、これくらいして当然だべ」


 最初に車から降りたのは主人、老夫婦相手にペコペコ頭を下げているが、外に出たいのは私もだ。車の扉を開けようと腕を通そうとするがうまく開かず何度も引っ掻いてしまう。その気配に気付いたのだろう。主人は私の乗っている助手席側に回り、扉を開ける。


 勢いよく飛び出した私。そのまま、老夫婦のおばあちゃんのところに頭を勢いよく突っ込ませる。同時に『あらあら』と言いながら私のことを勢いよく撫で回してくれるおばあちゃん。主人とは違った優しく、それでいて力強い手の感触。


 そうだ、懐かしい。ここが、私の生まれたところ。


「やっぱり、北海道犬はパワフルですね。その中でもおとなしい子だとは聞いてましたけど」


「いやいや。これからもっとやんちゃな子になるべ。孝明さんも、覚悟しないと食われれちまうでよ」


「ははは、まさかそんな。この子、僕のこと一回も噛んだことないんですから。ねぇ、カオル」


 そう言いながら、私の頭を撫でる主人の手。やっぱり、自分に一番しっくりくるのは、この大きくてちょっと乱暴な手だ。


 私は北海道犬である。


 生まれは北海道の厚真市。北海道犬の中でも虎毛の模様が入ったのが特徴的な犬種だ。そして、今主人と話をしている加藤夫妻は北海道犬のブリーダーを生業としている人で、三年前にここで生まれ、そしてインターネットで知り合った主人と出会い今に至るわけである。


「カオルちゃん、どうだい? 久々にお家で食べるうどんは?」


「そんなの、覚えてるわけねぇべさなぁ」


「そんなことないわよ。私のうどん、一番好きだったの、カオルちゃんだったもんねぇ」


 本日の私の食事は、加藤夫妻お手製のうどんである。この家で生まれた兄妹たちはみんなこのうどんを食べて育ってきた。味のことは全然わからない私だけど、これを食べると実家に帰った気がする。そんなことを思い出しながら、今でも優しく頭を撫でているおばあちゃんのことを見上げながら口に中に含んでいるうどんの飲み込む。


「んで、今日はなんだい? 遠路はるばる東京から来てくさって、電話で済む内容じゃないのかい?」


 畳の上でちゃぶ台を間に挟みながらおじいちゃんと主人は何か話をしている。深刻な話ではないようだが、それでもつい気になってしまうのでうどんを口にしながら聞き耳を立てている。


「カオルも三歳になりました。私も、そろそろ新しい家族を迎えても良いかなって思ってまして……」


「つまり……また。うちから新しい子を引き取りたいってことかい?」


「はい。カオルも、普段私が仕事にかまけているせいで、一人寂しい思いをさせてしまっているのは事実です。せっかくなので、家族を迎え入れたいとなれば。ぜひ、加藤さんのところの子をと思いまして……」


 腕を組みながら考え込むおじいちゃん。私には彼らの言っている言葉がはっきりとわかるわけではない。だが、何か大きなことが動いているような気がしてならず、私も前足で主人の膝をカリカリしながらことの顛末を見守っている。


 そして、


「……まぁ、孝明さんだったら別に良いでしょう。カオルちゃんをここまで立派に育ててくれたアンタになら、うちの子を預けてもいいべさ」


「……ありがとうございます」


「……わざわざここまで来くさったんだ。帰りはどうすんだべ」


「帰りは飛行機で帰ります。明日一日余裕があるんで、観光してから帰ろうかなって」


「そうか。なら、今日はここで泊まっていきんさい。花っ! 二階掃除しててくんろ」


 台所から『はーい』という返事を聞き主人とおじいちゃんは再び話を咲かせている。


 その日の夜。


 二階に用意してもらった部屋で、主人と一緒の布団の中に入って寝る。こうやって寝るようになったのは、つい一年前のことだろうか。疲れた主人が服も着替えず寒そうな格好で、仕方がなく暖をとってあげようと気を使って始めたのがきっかけだった。


「カオル……、ごめんな。なんの相談もなしに。でも、一人より、二人の方がいいだろ?」


 その言葉に、私は返事を返さない。その代わり、深く吸い込んだ主人の匂いだけが今となっては自分を落ち着かせてくれるようになっている。


 だが、何も言わなくてもわかってくれるはずだ。


 私たちは、言葉は通じないし。無振そぶりで思いが伝わるわけでもない。


 でも、これだけはわかってほしい。


 私は、あなたといれて幸せだよ。ってことを。

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