第29話 月が綺麗ですね
「がぼ、ごぼぼぼ!」
なんとか逃げれたぜー、と一息つけたと思ったわけだけど、残念、迎えてくれたのは冷たい海水と強い勢いの海流だ。
思わず足を取られ、水中で一回転。抵抗する間もなく岩の一つに頭をぶつけた。
一瞬点滅する意識。抱えていたはずの岩座守は暗闇へと消えていた。
「ぞれば、ばずい!」
そうして、海中で喋ろうとすることもまたまずい。
息がもたない。
流されていった岩座守を探すのが最優先ではあるものの、このまま窒息死というのもよろしくない。
頭も痛いし、焦れば焦るほど、冷静な判断に使う酸素が減っていく。
月明かりを頼りに、俺は一度海面へと浮上した。
「ぷはっ」
水面に出ても海流の勢いが強くて、顔を出し続けることができない。でも、月かなにかの光を感じた。
この波の強さ。経験したことがない。瀬戸内海以外の海なんて体験したことも見たこともないけれど、地元の海じゃないような気がした。
「太平洋のド真ん中とか、それは、笑えねーけど」
岩座守を助けて、逃げるために異空間そのもの消したのは博打だった。それしか術がなかったとはいえ、今その行動を後悔している。
「う、うわぁ!」
子供の悲鳴みたいなのが、咄嗟に自分から出た。
やばい。流される。波が速すぎる。
現在地がわからない。けど、なればこそ、これ以上余計な移動はすべきじゃない。岩座守も見失ってしまった。アイツはまだ意識が戻っていない。朦朧としている。まともに泳げるはずがなく、出血多量で死にかけている。水の中じゃあ呼吸ができないし、止血もできない。
言葉どおり、傷口に塩を塗っている状態だ。笑えない。
海流に身を任せれば、ある程度は同じ場所にたどりつくかもしれないけれど、地球を覆う広大な海の中では「同じ場所」というくくりだって、あまりにも巨大すぎる。
ここを離れるわけにはいかない。ここで岩座守を見失った以上、ここから岩座守を探さなければ。
「くそっつ」
服が水を吸って重たい。いつも以上に鈍重になって、おもりを体に巻きつけたようだ。浮上しようとすることにも、通常以上に力を使う
そうやって、どんどん体力と時間だけが減っていく。
呼吸をするために海面へと顔を出すだけで、いったい何分失った?
猶予がない。
余裕もない。
自分の体も冷えてきた。
海水で眼球は炎症を起こして、全てがぼやけて見える。
喉の奥まで海水が押し寄せて、塩が体内の水分を奪っていく。水があるのに、自分から水が消えていく。
魚の腐敗臭のようなものが、風に乗って鼻を刺激する。息を吸っても新鮮な空気なんて摂取できなかった。
意識を失うな。失ってなるものか。それはつまり、死だ。
まだ、岩座守を助けてすらいない。
とにかく息を、酸素を。波だっていつかは穏やかになるはずだ。今だけ天候が悪いだけなんだ。
抵抗はした。
でも、自然の力には抗えなかった。
何回も何回も、岩に叩きつけられた。そのたびに肺や心臓が軽く痙攣したし、脳は
でも、ある瞬間にピタリと痛みがやんだ。全身に擦り傷ができて、染みて、痛かったけど。殴られるより痛いような衝撃が止まった。
「おや。人が死んでいると思ったら、先輩ではありませんか。危ない危ない、警察に通報するところでした」
「いや、通報はしろよ。どう見ても死にかけてるだろ」
抵抗はした。
けれど、こうして自分だけ、陸地に流れ着いてしまったみたいだ。
テトラポッドの間に体をくねらせて、腰を逆「く」の字に折って挟まっていた。
岸に流れ着いたと気がつけたのは、それまで苦しかった呼吸が少しは楽になったことと、体をたくさんのフナムシが這ったこと。
そして、どういう偶然か友人の新川真奈が目の前に現れたからである。
「ツッコむ余裕はおありのようですね。しかし、こんな時間にいったい何を? ワカメ漁?」
写真を撮られた。勝手に撮るな。
頭を指さされて、髪に触れてみると、まぁ見事なまでに、カツラのようにワカメが頭を覆っていた。おかげでぬるっとしている。
これ以上ここに居座るのは気分が悪いので、さっさとテトラポッドを乗り越えて、地に足をつけると、今度はアカクラゲが服からぼとぼとと落ちた。
その光景も見て、新川はまた笑っている。
「お前な……まずは心配だろ……アカクラゲって触手には毒がだな」
「あはは! でも先輩って、毒は通用しないでしょう?」
「なんで、それを知ってる……言ったことあったっけ?」
「昔あったじゃないですか。イラガの死骸を先輩の靴に入れるっていう、カスみたいな遊び」
「あったっけ」
あったとしてもそんなカスみたいな遊びは記憶から消してるよ。
「不思議なことに先輩は痛いとか痒いとか言わないから、虫の数とか、どんどん過激になったじゃないですか。後輩の私ですら知ってる、母校の狂気エピソードのひとつです」
「なにそれ犯罪」
「あなたがされたことですよ……」
「いや、そんな話はいいから。お前、どうしてここに? というか、ここどこ?」
「
反射板のついたライフジャケットを着ていたのはそういう理由か。
沫路島というのは兵庫県南部、瀬戸内海東部に位置する島のことだ。瀬戸内海の島々の中でも一番大きな島で、北部と南部にはそれぞれ、本州と四国を繋ぐため、海峡をまたいで橋が架かっている。
俺たちが拠点として活動しているのは鋼戸市とか、兵庫県南部一帯。車なんかで移動しなくとも、海が見えているような地域で暮らしている。
意図せずして、そこから更に南下してしまったのだろうか。あの異空間から脱するために。
「もしや。
であれば、海流が強すぎたことにも納得がいく。沫路島と徳島県の合間に位置するもう一つの海峡。世界三大潮流のひとつで、大きな渦潮が見られることでも有名な海峡だ。
兵庫県南部から徳島県最北端へと、あの異空間を通じて転移した。転移座標の誤差だと言われれば腑に落ちる距離でもある。
が、しかし、新川は不思議そうに首を曲げた。
「はい? 何を言っているんです。ここは
鳴門海峡ではなく、赤石海峡。
沫路島の南部にある海峡ではなく、北部にある海峡。
つまりは、鋼戸市と隣接する海ってことになる。
新川はこれが証拠だと、我らが街の象徴とも言うべき建築物を指さした。
数十年前に一度テロによって破壊され、新時代の技法で再建された、世界トップクラスの長さを誇る吊り橋――――夜間はライトアップによって美しく輝く赤石海峡大橋を。
見慣れたものである。夜間に散歩しようものなら、必ず目に入るような巨大建築物だ。しかし、間近で見て絶句した。
俺が月だと思って海中から必死に観察していたものは、橋のライトアップだったのだとやっと気がついたからだ。
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