第30話 Abnormality

「なにもかもどうでもよくなって、海にダイブですか? あ、それとも「や」のつく職業の方に沈められました?」


 新川真奈はそう言いつつも、ニタニタと笑っている。


「あのな……」


「いやー、失礼失礼。でも、真夜中に海水浴なんてやっぱりまともじゃありませんよ。普通にとち狂ってます」


「馬鹿な友人と馬鹿やった結果だよ」


「馬鹿ですね」


 とてもつまらなさそうに新川は笑った。


「場所がわからない状態だった――ということは、別の海岸で遊ばれていたということでしょうか。ご友人も一緒に流されました? 無事だといいですが。やはり海上保安庁に通報するべきですか?」


 118と入力された電話の画面を新川は見せてきた。


「やめてくれ、流されたのは俺だけなんだ。多分、離岸流ってやつ」


 ありそうな嘘をついた。


「なるほど。赤石海峡の海流は尋常ではありませんからね。だからこそ、鯛や蛸の身が引き締まっていて美味しいと言いますけれど、流れが強すぎて魚でさえも疲労骨折して、何カ所も骨にこぶができるそうじゃないですか。岸から離れれば、人間が泳げるわけありませんよ」


 そんな豆知識、今はいらねーよ。

 子供の頃、しっかりと整備された海岸で海水浴をしたことはある。ただそれだけのことで、俺は地元の海を知った気になっていた。だから、突然海中へ転移したとき、ここは地元の海じゃないと判断した。

 けれど、海岸と海峡のド真ん中ではなにもかもが違う。

 海流。水深。そこに棲む生物。地質。

 海岸での海水浴(しかも数十年も前の話)を基準に、あ、ここは地元の海じゃない、太平洋や日本海だ。などと判断したのは馬鹿の極みだろう。

 パニック状態であったとはいえ、月光と橋のライトアップの区別くらいはするべきだった。波が強いとはいえ、ここがそう遠くない場所だと確信さえ得られれば、もう少しまともな行動、判断ができただろうに。


「いや――」


 冷え切った頬を強く叩く。

 まだ反省会を開くタイミングではない。依然、岩座守の居場所は掴めないままだ。急いで見つけ出して、応急処置を行わないと。

 事件は解決していない。状況は劣勢。こうしている間にも敵魔術師は次の手を打ってくるだろう。


 服を脱いで、海に飛び込もうとする。

 さっきは衣服が水を吸ったからまともに動けなかった。上裸になってしまえば、多少は動きやすくなるだろう。

 自分の体力も残り少ない。

 体が動く今のうちに、岩座守を連れてとっとと紬希ちゃんと合流したい。


「え⁉ あのー……」


 新川は若干引き気味に声を出した。

 ただ、制止されたとしても人の命がかかってる。あえて目を合わせないようにして、そのまま飛び込もうとした。


「ほっといてくれ。後日また、事情を説明するから」


 もちろん、それも嘘だ。


「いや、そうではなく。あれ」


 新川真奈の指さす方向にはどこまでも黒く、暗い海がある。


「ほらあれ」


「なんだよ、わかんねーよ」


 理解の悪い俺のために、新川は夜釣りのために所持していた、アウトドア用の強力LEDライトで海面のある一点の場所を照らした。


「いっ! 岩座守!」


 そこに、いた。

 強い海流にのみ込まれたとしても、やはりある程度同じ場所に行き着くのが自然界の法則なのか。単に奇跡とやらが起きただけなのかもしれないけれど、岩座守が体を上向きにして、すぐそばの海を漂っていた。流木のように。


 急いで海に飛び込んだ。無我夢中だった。

 岩座守が見つかったとしても、長い時間意識のないまま海中を彷徨っていた。呼吸は止まっている方が妥当だし、低体温と出血で状態は間違いなく悪化している。


「岩座守‼」


 声をかけても返事はない。波に揺られながら呼吸を確認しようとしたが、素人には無理だった。

 腕を掴んで、岸へと必死に泳ぐ。

 何度も口へ海水が押し寄せた。

 耳の中まで浸水して、音はほとんど聞こえない。

 新川の持つとんでもない光量のLEDライトだけが頼りだった。


「うぇ……」


 テトラポッドにたどり着いた。口から海水なのか、胃の中身なのかわからないものを吐き出しながら、それでも気力を振り絞って、岩座守の体を防波堤へと上げる。


「意識のない人間はこれほどまでに重いのか……!」


 海中とは比較にならない。岩座守の体はやせっぽちで、体重があるわけじゃないのに、一人では担ぐことすらできなかった。

 テトラポッドという、不安定な足場だったから――ということもあると思う。

 なんとか陸へと運ぶことができたのは、新川のおかげだろう。

 再び海へと滑り落ちそうになった岩座守のをすぐに両手で掴むと、岩座守の肩が脱臼しそうな勢いで防波堤の上へと運ぶ。


「こ、今回ばかりは助かった……新川……」


 いや、右腕?


「今回ばかり……じゃあないでしょう。普段から感謝してほしいものです。それに、他にも流されていたではありませんか」


 苦笑しながらさし出された手を握り、自分も陸へ上がる。


「い、岩座守……起きてくれ……」


 陸地でフラッフラの俺の代わりに、新川が岩座守の呼吸を確認する。


「いさりがみ~~……」


「先輩、うるさい!」


 岩座守の隣に寝そべるようにして胸の動きを確認する新川。それでも確証がなかったのか、今度は口元へと耳をあて、首の太い血管へと指をあてた。

 ずっとドキドキしっぱなしだったけど、この時間が一番怖かった。

 もし、岩座守が死んだら…………その先を考えてしまうから。


「大丈夫です。呼吸はしています。脈拍も素人目には安定しているでしょう。よかったですね」


「そ、そうか……」


 緊張が一気にほぐれて、腰が抜けた。

 しかし、海中に放り出されたにも関わらず、呼吸ができているってのはどういうことだ? 普通は水を吸って息ができなくなるはずだろう。

 最初から呼吸が止まっていたから吸うこともなかった? でも今は息をしてる。


 それだけじゃない。なにか違和感がある。

 そうだ。


 立ち上がって、自分の目で確認する。

 今の岩座守にのはおかしい。


 あの異空間ではたしかに出血していたはずだ。

 魔術師に攻撃されてばっさりとなくなっていたはずだ。

 はずなのに、岩座守の体に大きな出血も、欠損もなかった。


 いや待て、暗くてよくわからないけど、右腕だけ色味が変だ。強引に再生させた結果なのか、人肌の色をしていない。肌色に近しくはあるけれど……血が行き渡ってないのか?

 おそるおそる触れてみると、感触も違う。生き物の肉というより、これはそう、彫刻というか。

 

「どういうことだ……」


 新川には見られないように背を向けて、岩座守の目蓋に触れる。


「…………」


 意識がなくとも魔眼には関係のないことなのか。閉じた目蓋の奥では、今なお不気味に魔眼が稼働を続けていた。

 到底、一般人たにんに見せられるものではない。だから、病院に連れていくこともできない。治療をするのであれば、紬希ちゃんや幽志朗のところへ連れていくのが妥当だろう。

 超常は一般人に知られてはならない。

 みんなが知らないから超常なのであって、周知の事実となってしまえば、超常でもなんでもない。たとえ合理的に説明がつかないものであっても、多くがこれを知覚すれば、ただの現象と化す。

 これは単に超常の価値が下がるだけでなく、認識されれば認識されるほど人類は滅びへと進むことになる――らしい。

 巴さんの受け売りだ。どうして明言できるのかはわからないけれど、無関係な人間を巻き込むことは絶対にするなとずっと言われてきた。


 岩座守の命が危なくとも、それは同じなのだろう。

 呼吸、脈拍ともに今は安定はしている。出血は止まったというか、負傷すらなかったことになっているし、ひとまずは安心していいと思う。

 問題はここからどうやって事務所のある鋼戸のほうまで戻るかだ。

 沫路島は離島だけど、何度も言うとおり、本州(鋼戸方面)と四国方面へ橋がかけられている。おかげでそれほど苦労せず街に戻れそうだ。

 ただ、橋を渡るのに徒歩というのはあり得ない。橋は高速道路の一部であって、車でしか侵入できない。


「そこでだ」


「なにがそこで?」


 俺は新川の方を振り返って、満面の笑みで言う。


「お前、どうせ車で来たんだろ?」


「はい? はあ、まぁ」


「車、貸して」


 語尾にハートマークがついていそうなニュアンスで、俺は言った。 

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