第12話 鷹視狼歩
世界には真実と嘘がある。
太古、それは陰陽とも呼ばれた。
全ての起源を辿ってゆけば、世界は究極的に二つのモノに別たれる。
雄と雌。
正と負。
光と闇。
表と裏。
過去と未来。
世界は、この二つが無際限に交差している。
だから、ひとの目で見ている世界そのものは、真実と虚構、それらが入り交じり複雑化した世界。
ひとはそれに気づくことなく生きている。
境界を視るということは即ち、太極を直視することに他ならず。
太極を直視することは、生物にとっての死を意味する。
故に、人が狭間を観測するなどありえない。
されど、岩座守鷹彦は境界を視る。
「ッ――ァ……」
一度、声にならない胸痛。すぐに感覚は遮断されたものの、心臓は今も痙攣している。今もこうして意識があるのが不思議なくらいだ。本来なら失神して当然の症状を"他のなにか”が打ち消してくれている。
『いまだけ耐えてくればいい』
内心、そんなことを思いながら瞳孔を更に開く。
そうして岩座守の瞳孔は歪な形状へと変化した。白色の輝きと共に、紋様のようなものが生じている。
「――――‼」
未知の感覚に思わず絶叫した。
感覚が無意味に拡張されている。危険ドラッグに手をつけたときの症状とほとんど同じではないだろうか。まるで、そんな風に。
頭が妙に冴える。数秒先の事象まで、あらゆることが手に取るようにわかる。
躯体の応答もいつもより繊細で機敏だ。
それで、視界もイカれてしまっている。普段以上によくないモノが見えている。
まるで世界がただの紙のようだ。ペラペラとした紙がいくつも重なっているように見える。一枚目は現実をありのままに。その奥に二枚目、三枚目と現実に近しい
紙を凝視すればするほど、重なった世界はよく見える。
自分でも何を言っているのかわからない。
けれど、視界が映している映像はこれで本当に間違いがない。
あらゆる仮想世界と現実世界をトレース台に乗せ、透かしているような雰囲気でもある。はたして自分の視ているものが本当に仮想世界かどうかは知らないけど、情報が濁流のように押し寄せてきているのは事実だ。
「――はぁ」
でも。
「岩座守。その力、苦痛ではないか? 私ならば痛みなく切り離すことが可能だが」
でも。
「ああ、たしかに痛い」
その言葉に男は少し口角を上げた。
「であれば」
「でも、今の俺ならハッキリとわかるんだ。オマエが家族をどんな風に殺して、どんな風に扱ったか。そして、俺ならどんな風にオマエを殺せるか」
「人殺しをしたこともない人間がよく言った」
「そう? でも、その冷静さもここまで」
オマエを殺せれば、それでいい。
先に動いたのは自分。
瞳であらゆる可能性を観測する。情報は常に入り乱れて、血管の中にある弁を無視して逆流するかのようにして身体を破壊していく。
けれど、今なら耐えられる。
目の前の男を殺すためならば、俺は殺戮マシーンにだってなれる。
父も、母も、兄も死んだ。
祖父母も既に亡くなった。親戚の連中も、とっくに死んでいる。
あぁ。生まれてきたことが罪か。
だとしても、自分が最後じゃないか。
下限はもう見えた。
失うものはもうない。
「なぁ、お前には今の俺がどう見える?」
視界はノイズまみれで、焦点もなかなか合わない。
でも、雲雀朧だけはしっかりと視認することができている。
「墜ちた鷹が賽の河原で石を積んでいる」
「詩人にでもなったつもりか。あぁ、全然詩的じゃない」
「翼を失ったのは事実。あとはその首を折るのみ」
「そうかよ――‼」
右腕がぐんと男の顔面へと直撃する。
どんなに反応がよくても回避はできない。この暴力は放った瞬間に結末が確定している。そういう運命に俺がした。
だから、この一撃で全てが決着する。
手に、衝撃といった感触はない。
「すぅ……」
必要なだけの酸素を肺が吸う。下手に吸えば呼吸器系のどれかが潰れるからだ。神経からくるズキズキとした痛みは全て遮断されているけれど、体は本能的にそうした。
バチバチと点滅を繰り返す視界。
その先に雲雀朧の姿はない。
殺した?
いや、おかしい。
自分の身体が『殺せた』と思えていない。
要は勘だ。
「
背後からそう囁かれた瞬間、俺の身体は自分のものじゃなくなった。
全身を刃物で分割されるような痛み。
自分の視界はバーナーで焼かれたように、じわじわと真っ白に消えてゆく。
「……ッ! なにが、どうして!」
男の行動が読めなかった? 未来視すら可能なはずの、この瞳が?
わからない。無限の選択肢を自分はたしかに掴んでいた。あらゆるケースに対応できるよう動いていた。
じゃあこれはなんだというんだ?
何故あの男の攻撃が自分に通用している?
もっと高次元的な力を、更に根本的な仕組みを、雲雀朧は所有しているとでも言うのか?
境界の魔眼は対策済みってか。なんだよ、それじゃあ単なる力負けじゃないか。
「――――――」
体がどうなっているのかの確認すらできない。
痛い。痛みがある。痛覚が戻っている。さっきまでハイになっていた体は勝手に全てのスイッチを元に戻した。
「――――ぐぁぁあああ‼」
捌ききれない情報。溜めていた負債が一斉に帰ってくる。
声にならない。
自分がなにをしているのかもわからない。
"これは本当に、生きているのか?”
わからない。わからない。わからない。
いたい。いたい。いたい。いたい。
苦しくて仕方がない。
ああ、ならいっそ、どうにかして――――。
「私であればどうにかできる。その痛みを、その生と共に終えることが」
なんのための復讐だ。
俺はなんのために戦おうとした。
こんなにも差があるなんて思わない。
こんなにも苦しいだなんて思わない。
俺はまだ、なにもしていないのに――――
「したさ。お前は私を殺そうとした。その結果がこうだ」
じゃあ、俺が悪い?
もう降参したら、全て忘れて楽になれるのか?
あぁ、もう、俺は――――なんて情けない―――あ、れ?
痛く、ない?
さっきまでの痛みが嘘のように消えた。それに、真っ白だった視界もまともな状態にまで戻っている?
なんで、どうして……。
体も動く。
横たわっていたようだけど、自分で立ち上がることだって。
「な、なんだ……? なんで?」
周囲を見渡す。
雲雀朧は舌打ちをしながら、虚無を睨んでいた。
「お前か、螺旋巴!」
「岩座守鷹彦を先に保護したのはこっちだ。というわけで所有権はこっちにある。盗みはいけないなぁ、同業者」
ついさっき、警察署から俺を連れ出した人だ。螺旋巴だ。
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