第5話 逃亡

「あ、アンタ! 助け!」


 別方向から声がした。生き残り? 違う。彼もまた、俺のように悲鳴を聞きつけた男性だった。そう、さっきすれ違ったランニングマン。

 青いジャージには反射板が沢山付いていて、遠くでぼんやり光る街灯でも、くっきりとその体が見える。距離にして二十メートル。彼は怯えて、こちらへと駆けてくる。


 だが、それ以上に目立ったのは、その背後で嗤う、巨大な球体関節の人形。首振り人形みたいに、ぶらぶらと揺れる丸坊主のベイビーフェイスに、異様に長い四肢。白い陶磁器を想起させる躯体はカタカタと異音を立てながら、迫る。

 ネック・クラッシャー。アレは、実在した。


「――――ひっ!」


 その悲鳴はどちらのものか。


「まわるまわる。あなたのしかいはくるりとまわる」


 合成音声みたいな声が響き、きゃはははと、赤子の笑い声。

 次の瞬間、人形が首をかくんと回す。

 それを真似たみたいに、前を走る男性もまた、時計回りに首をぐるんぐるん回して、シャンパンのコルク栓みたいにすぽんと、吹っ飛んだ。

 コーラみたいに、血をまき散らし、男性だったものは、サッカーボールに。

 とん、とんとんと、足下へと転がってくる。

 涙を零し、充血しきった狂気の瞳。口からは泡状の血が漏れて、もう死んでいる。誰がどう見ても、助かることはない。


 胴体と頭はあり得ない角度に曲がる行為を、何度も繰り返し、引きちぎれた。

 男の顔はまるで、「次はオマエだ」とでも言うように、こちらを向いて笑っている。


 間髪入れず胃液を吐瀉した。びくんびくんと食道が痙攣するように震えて、次なる嘔吐に備えている。耐えきれない吐き気に、俺はその場でのけぞった。情けなく、脚を開脚してひっくり返った。

 口元を抑えて、球体人形を見なかったことにする。


 そろりそろりと後方へ体をずらす。


「こんな、人の死に方が、あるかよ………!」


 恐怖のあまり、視界が鈍る。

 それでもなんとか立ち上がって、踵を返そうとしたというのに。


「まわるまわる。あなたがまわる。くるりくるりとさんかいてん」


 異形のドール人形は、いつの間にか正面へと回っていた。


「あ」


 詰んだ。そう思った。

 あの人形は、単に俺を追いかけて、正面に立ち塞がったのではない。

 奇怪な音と共に、四肢を伸ばし、人らしくない姿を取って、移動した。まるで蜘蛛のように、第二の脚を展開、稼働させて。


「はは。に、逃げられるワケがない」


 首をねじられた遺体があったのは分かる。その点は、伊達の言ってた話と間違いない。浮世離れした現実は確かに今、ここにある。

 だが、彼に文句を言えるとすればそれは。


「目撃者なんてどうあっても存在しないっての…………」


 死を覚悟した。

 魅入られるように、赤子の顔をした人形を見つめる。


「まわるまわる、まわる、まわる」


 回転を始めた頭部。

 デッドエンド。天河七楽の人生はこれでおしまいだ。そう思った。


「まわるまわる? まわっている? まわれまわれ」


 合成音声みたいな、子供の声は、違和感を感じるように、疑問符を浮かべ始めた。

 おかしい、それはおかしいと。

 赤子の頭部は既に七回転している。だが俺にはなんら異常はない。


 チャンス。なんだか知らんが状況はこちらが有利と見た。

 化け物は首を捻ることに固執している。ならば、他の手段での殺害される事はおそらくあり得ない。

 急げ急げと心臓が急かす。ここから早急に立ち去れと、脳はアドレナリンの過剰分泌を始める。


「さっさと逃げろ!」


 恐怖のあまりに作り出した幻想が、幻聴となった。

 自分に言われなくとも!

 俺は全速力で反対側へと走る。あったのは、二つの死体とびしゃびしゃの血みどろ。

 ぬるっと滑りつつも、そのまま駆ける。


 幸運な事に、その先にはドライバーの帰りを待ちながら、エンジン音を鳴らす、バイクの姿があった。

 生憎、二輪免許は所持していない。運転できるのは普通車と原付だけだ。だが、幸運なことに、目の前のバイクはオートマチック。

 クラッチなんて装備しない、ビッグスクーター! 


「曲がれなくていい! 今はとりあえず、真っ直ぐ逃げる!」


 無免許運転。警察に見られたらお縄。その乱雑な運転の仕方から、公道を走れば一発で見抜かれる。だが、そんなのは構うもんか。すぐそばにいるバケモノは、既に何人も殺してる。法律が通じない相手を前にしてんだから、これくらい見逃せってんだ!

 アクセルを回す。

 ビクスクは不正改造車だった。爆発に近い排気音を鳴らしながら、急加速する。

 ノーヘルだったんで、危ないことこの上ない。


「へ、へへへ!」


 だが、頭はすでにどうにかしていた。イカれてんだから、ヘルメットなんて必要ない。

 ものの数秒で、百メートル引き離す。盗難、信号無視に、無免許運転、そしてノーヘルメット。違法行為を一瞬にして成し遂げたワケだが、心は清々しいほど気持ちよかった。


「あ、やべ」


 が、しかし。バイクの運転はした事がないのを忘れてはならない。T字路へ到達する瞬間、ブレーキを引いて減速したものの、荷重移動に失敗。勢いよく車体が中空へ。


 バイクのフレームが歪み、カウルは木っ端微塵。電装系は全部おしゃかだ。

 俺は勢いで大砲みたいに吹っ飛び、擁壁へと背中をぶつける。

 感じた事のない衝撃と痛み。

 視界はチカチカと激しく点滅を始め、やがて意識を失うこととなった。

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