第3話 知り合いのソレを見てはならない。

 マーライオンみたくびしゃびしゃと音を立て、床を汚す哀れな男に、岩座守の上に跨がっていた女が振り返る。

 彼女の姿は俺のよく知る人物であり、その結果の嘔吐だった。


「い、岩座守、人妻は、ダメだ」


 失笑しつつも、胃液がこびりついた口元を素肌の腕で拭き取って、しゃしゃっとその腕からも汚れを払う。

 こんな形で彼の性癖を知る事になるとは、なんだかなぁ。ただ、夢の内容を巴さんに口外してはならないってのは分かった。


 だって、その人の姿、巴さんの奥さんだったから。


 顔を合わせたのは数回ほど。岩座守だってそう多くはないはずだ。ただ、年齢が俺たちと離れているのに、同世代にも劣らず、モデルさんみたいに美人なもんだから、アイツが一目惚れしたとしてもおかしくはない。


 だが、それでもダメなものってあるでしょう。


 サキュバスの語源は「愛人」や「不倫相手」を指すらしいけど、あの人は巴さん一筋だっての。子持ちだし。


 よく見ると、(失礼だが)本物より若く見える。サキュバスは巴さんの奥さんをベースに、少し若返らせるとか、岩座守好みの姿へと変化させていた。

 スラッとした躯体に思わず魅入られる。ふかふかの布団で体を隠してはいるものの、両者共に真っ裸だった。


 いかんいかん。頬をペシンと叩くと、煩悩を振り払う。


「アンタが街の男性陣に悪夢を見せていた犯人だな。なら、手を引け」


 忠告に、女はすぐさま立ち上がった。

 戦う気か。と、俺は一歩後ろへ下がり、身構える。

 裸だったはずの体は幻影みたいにさっと変貌を遂げ、何者かへと変わりゆく。

 俺の想起する理想の女性にでもなるつもりなのか、一歩、また一歩と歩み寄る。


 最終的に、女の体は、ピンクのカーディガンに、短いスカートを履いた、学生くらいの黒髪短髪の少女へと変わる。


 俺がそんなモノを望んでいると?これじゃあまるで、援助交際じゃねーか。

 着衣プレイ? ふざけんな。そんなもの、自分の性癖でもないわ。

 内心、心底くだらない理由に苛立ちながら、淫魔との距離を保つ。

 だが、彼女の顔は悲痛に満ちていて、水を失った魚のように苦しそうだった。俺も、違和感を感じるくらい。


「――――助けて」


 最初に淫魔が発した言葉は、怒りでも、挑発でもない。

 淫魔は助けを求めていた。


「は?」


 後退していた体は、壁にぶつかって、遂に逃げることなどできない。

 冷静になれ。この女は俺すら捕食する気なんだ。だから、苦しんでいる演技をして、同情を誘っている。


 サキュバスとは古来より、男をたぶらかす存在なのだから。

 そんな簡単な手に乗るかよ。

 壁と平行して、女の魔の手から遠ざかる。岩座守の眠るベッドへと近寄る羽目になったが、こればかりは仕方ない。


「ち、違うの、助けて! 助けてよ!」


 淫魔の演技に拍車がかかる。

 涙を零しながら、精一杯の叫び。

 自分がこの女から逃げているのは、間違いではないのか。体はそんな罪悪感に苛まれ始める。じわり、じわりと魅了されているように。


「違うッスよ、七楽さん。その子は、本当に――――」


 ベッドに横たわる岩座守はどこかげっそりしていて、俺の方へと手を伸ばし、そう言った。


「バカいえ! お前はとっくに魅了されてんだ。夢の中にまで助けに来た理由を考えろっての!」


「魅了とかじゃない――――あの子は、怪異に昇華された、ただ――の」


「なに?」


 問い返すが、岩座守の意識はない。それはまるで、更に深い夢の中へと潜ったように、静かに呼吸だけを繰り返していた。

 だがそこでようやく、彼女の様子を振り返るきっかけができた。

 確かに、苦しそうで泣いている。

 違和感もあった。どうして服を着た姿に変わったのか、それが不思議だった。男を誘惑するのであれば、ぶっちゃけ素っ裸になるのが一番効率的だろう。甘ったるい香りにこれでもかというピンクの照明。曲線美はよりはっきりとするし、薄暗さってのは興奮を底上げするには十分だ。

 なのにどうして着衣? 無論、俺の性癖でもない。場に合わぬ容姿、服装は、ここの雰囲気を相殺する。

 違和感、なんだ、何が引っかかる? 巴さんの話を思い出せ。


『決定的なのは初診の多さだよ』


 何故、そこまで患者が増えた? 淫魔の被害に遭ったから。それは分かっている。だが、都市一つの男性の生気を略奪する理由になるか? 淫魔一人の犯行だとすればそれは多すぎるし、長いこと怪異として存在していたサキュバスの血統が、今更大々的に活動するとも思えない。

 つまり、つまりこれは、淫魔になって間もない者の犯行? 岩座守の言っている事はそういうことか? もしくは、カマキリ男のように力の暴走が招いた結果だとすれば?


「それは、確かに辻褄が合う―――けど」


 しかし、根拠がない。どうしてそうなったか。それを問わねばこの問題は解消しない。

 なら、やることは一つだ。


「本当に助けてほしいなら、事情を話せ。そして、これ以上近づくな」


 指示に応じ、少女はピタりと止まった。相当精神が摩耗しきったような顔つきだが、理性やらはあるらしい。


「で、男をたぶらかしておいて、助けを求める理由とはなんだ?」


 少女は少々あたふたした後、言葉をいくつも頭で巡らせた後、口を開いた。


「お、お兄さん、誰だか知らないけど、何か事情は知ってると思うから――――その、私、サキュバスになってしまったんです!」


「は?」


 サキュバスに、なってしまった?

 後天的に怪異になったってことか? でも、この雰囲気、精神超越とはワケが違う。以前相まみえたカマキリ男は、第六感が進化の過程で無理矢理こじ開けられた人の亜種。特異な体質や能力を手にすることはあるが、夢に干渉し、生気を吸い取る精神超越なんて聞いたことがない。もっとも、巴さんに注がれた偏った知識であるし、前例のないパターンの精神超越が出てくるなんてよくあることらしいから、まだなんとも言えないのだが。


 だがそれでも、やはり精神超越の類いではないと直感が伝えてくる。目の前にいるのは純然たる夢魔だと。


「――――じゃあまず、名を名乗れ」


「わ、私は花鳥はなどり琥珀こはくと言います」


 バリバリの日本人?


「じっ時間がないんです!」


「時間がない?」


「早くしないと、また私、おかしくなる!」


 少女はその場に倒れ込み、震えながら体を抱くようにして両腕で包み込む。


「待て、他の情報は! お前の本体は今、どこにいる?」


「あ、ああああああああ、あああ!」


「クソ! なんなんだ一体!」


 少女を中心に、禍々しい何かが生じる。

 それは泥のような液体で、部屋一帯を浸食すると、俺たちをそのまま食らうようにばしゃんと、天井が崩落した。

 

 ◆


「――――ッア!」


 ソファから、上体だけを起こす。全身汗まみれで、動悸も酷かった。


「その様子だと、失敗か。しかし、牛乳を頭から被った甲斐はあったな」


 巴さんは、岩座守の方をじっと見つめてから、俺の方を見た。

 体中にへばりついていた牛乳は、揮発したように匂いも、痕跡も消え去っていた。そう、夢魔に吸収されたみたいに。


「師匠、事態はそう単純ではないかと」


 二人して眉をひそめる。


「よし、話せ。時間はないぞ」

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