第六話 歴史の真実と反撃ののろし

三一章 それぞれの思い

 鬼界きかいとうの草原を三人の女性が歩いている。

 しかし、それを『三人の女性』と言うことは出来ても『三人の人間』と言うことは出来たかどうか。そのうちのひとりは完全に自分を失っており、意思も感情も感じさせない呆けた表情をさらしたまま、手を引っ張られて歩いているだけだったからだ。その様子はとても『人間』と言えるものではなかった。

 アーデルハイド、チャップ、それに、カンナの三人である。

 クレタの死を知って以来、カンナは完全に茫然ぼうぜん自失じしつの状態であり、動きもしなければ眠りもしない。日がな一日、意思も感情も失った表情のままじっとしているだけ。アーデルハイドが命令しなければ食事もしないし、水すらも飲まない。もはや、精神が死滅してしまっているのでは。そうとしか思えない姿だった。

 クレタの死が知れ渡り集落中が大騒ぎになったあと、アーデルハイドはすぐに生けるしかばねと化したカンナの腕を引っ張って集落から連れ出した。そのまま、とにかく集落からはなれた。そうしていなければ確実に殺されていただろう。

 人間の手によって。

 集落中の家人かじんたちに囲まれ、よってたかってなぶり殺しにされていたにちがいない。

 それぐらい、クレタの死は集落の家人かじんたちにとって衝撃的な出来事だった。

 もちろん、衝撃を受けたのは集落の家人かじんたちだけではない。カンナはもちろん、アーデルハイドやチャップもその心に大きな痛手を受けていた。

 「……正直、わたしはクレタを恨みたいです」

 疲れはて、やつれきった表情でチャップが言った。いや、呻いた。そう言った方がふさわしい表情と口調だった。

 「なんで、死んだりする必要があったのか。カンナはクレタを助けようとしただけなのに。それを……」

 恩知らずにもほどがある。

 チャップははっきりと恨みを込めてそう言った。

 もちろん、人ひとりを――理由はどうあれ――死に追いやっておいてそんなことを言えた義理ではない。悪いのはクレタの気持ちを踏みにじったこちらの側だ。

 そんなことはチャップにもわかっている。

 わかったうえでどうしても言いたくなる。カンナのがらとなったようなその姿を見ているとだ。

 「だいたい、おかしいですよ。なんだって、鬼部おにべに食べられるのを喜んだりするんです。そんなの、絶対におかしい。クレタはカンナに助けてもらったと感謝すべきだったんです。そうでしょう、アーデルハイドさま?」

 「そうね。わたしもたしかにそう思うわ」

 「でしょう? それなのに、クレタは自分から死んでしまうし、まわりの態度ときたら。見たでしょう、アーデルハイドさま? クレタの両親ときたら、娘が死んだことじゃなくて『鬼に食べてもらえなかった』ことを悲しんでいたんですよ! あり得ないでしょう、そんなの。人の生命をなんだと思ってるんだ。この島の人間たちは皆、おかしいですよ。きっと、あんまり長い間、家畜扱いされてきたから精神まで家畜そのものになってしまったんだ。あいつらは、もう人間なんかじゃない」

 チャップの怒りはとどまらない。普通であればここまでは言わない。しかし、カンナの姿を見せられるとどうしても怒りが湧いてくる。

 「だいたい……」

 なおも言おうとするチャップをさえぎるようにアーデルハイドが口にした。

 「たしかに。この島の人たちの思いはわたしたちとは相容れない。でも、この島の人たちはずっとそうやって生きてきた。例え、それが、あなたの言う『家畜の精神』だったとしても。それを、しょせん、部外者に過ぎないわたしたちが『そんなのまちがっている! 人間とはこうあるべきだ!』なんて押しつけられた義理ではないでしょう」

 「でも……!」

 「チャップ。あなたは人々を守るために騎士になった。死ぬ危険のある戦場に出ることを選んだ。もし、ぽっと出の『誰か』があなたを戦場に出させないために、あなたの腕を斬り落としたとしたら? あなたはその『誰か』に感謝するの?」

 「それは……」

 チャップは答えられなかった。

 ――それとこれとは話がちがう!

 そう反発する部分がないわけではない。だけど、本当に『話がちがう』のかどうかは自分でも自信がもてない。だから、口に出してはっきりとそう言うことは出来なかった。

 とにかく、アーデルハイドたちは鬼界きかいとうを歩きつづけた。ただでさえ、人の世では考えられないほど巨大で凶暴、そして、強力な生き物たちがウヨウヨいる鬼界きかいとう。そのなかを自分では身動きひとつしない仲間を連れて移動するのだ。アーデルハイドとチャップの苦労は並大抵のものではなかった。

 チャップはしばしば斥候せっこうに出て他の生物のいない道を探ったり、安全に夜を明かせそうな場所を探し出さなければならなかった。アーデルハイドはアーデルハイドで自分では水一滴、飲もうとしないカンナのために、定期的に水を飲ませ、食事を取らせ、寝かしつけなくてはならなかった。

 『寝かしつける』と言っても『横にさせる』と言うだけのことで本当に眠っているかどうかはわからない。もっとも、これほどまでに精神が死んでしまっていては眠る必要自体、ないのかも知れないが。

 その夜もアーデルハイドたちはチャップがようやく見つけ出した小さな岩の隙間にその身を潜り込ませていた。窮屈きゅうくつだし、空気の流れは悪いし、ゴツゴツした岩肌はあちこち痛くなるうえに、体が冷える。人の世でなら絶対にこんなところで夜明かししたりしない。

 そう断言出来る。

 しかし、とにかく、巨大な怪物たちの襲撃だけは避けられる。危険な毒蛇や毒虫の類が住み着いていないことも確認している。ある種の薬草らしい草をいぶして、その煙で住み着いている生き物を追い払いもした。どんな植物がどんな用途に使えるかはうさぎからの詳細しょうさいな報告のなかに記されていたので見つけることは難しくなかった。

 「カンナを絶対にひとりにしないで。どんなきっかけでなにをするかわからないから」

 アーデルハイドはチャップに日頃からそう言っていた。チャップも同じことを感じていたのでカンナの様子は注意深く観察していた。しかし、さすがに連日の疲労と緊張で限界に達していたのだろう。交代で起きて見張っているはずが、ついついふたりとも寝込んでしまった。

 ふたりがあまりの疲労から泥のように眠り込んでいるそのとき――。

 カンナは幽鬼ゆうきのようにそっと立ちあがると、そのまま岩の隙間から出て行った。


 カンナの姿は草原のなかにポツンとある、離れ小島のような小さな森のなかにあった。

 その森は規模は小さいながらに古くて大きな木が何本も生えていた。それらの木々には見るからに丈夫そうなつる植物しょくぶつが何本も絡んでいる。

 カンナはそのつるを手にとった。つるを結び、輪を作った。その輪を自分の首にかけようとした……そのとき、カンナの腕を誰かがとめた。

 「駄目よ、カンナ。それはわたしが許さない」

 アーデルハイドだった。

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