三二章 ちがいを知るために

 「駄目よ、カンナ。それはわたしが許さない」

 アーデルハイドはカンナの目をまっすぐに見据えたままそう告げた。拒否することを認めない宣告だった。その手はつるをもったままのカンナの腕をしっかりと握っている。たおやかな外見からは想像もつかないすごい力。つかまれているカンナの腕の部分にはくっきりと手形のあざが出来ているにちがいない。

 アーデルハイドの隣にはチャップもいて、ハラハラした様子でふたりの姿を見つめている。

 腕の痛みが死んでいたカンナの精神を呼び起こしたのだろうか。唇が開き、言葉が現れた。

 「……アーデルハイドさま」

 何日ぶりだろう。カンナが言葉を発したのは。そして、感情を表に見せたのは。

 カンナの目から涙があふれた。ボロボロとこぼれた。アーデルハイドの胸に顔を埋め、思いきり泣きじゃくった。えと地上を照らす月のもと――。

 巨大な怪物たちののし歩く音が満ちる夜のことだった。


 アーデルハイドとチャップはカンナを連れて、今宵こよいのねぐらと定めた岩の隙間へと戻ってきていた。言葉で言えば簡単だが実のところ、か弱い人間が夜の鬼界きかいとうを歩いていて全員、生きてここまで戻ってこられたというのは奇跡に近い出来事だった。

 えた銀色の輝きを放つ月と、そのまわりを飾り立てるかのようにまたたく星たちの群れ。空を見れば人の世となにもかわりない。しかし、その月と星の光の輪舞りんぶが照らし出す地上の情景はまったくちがう。

 この鬼の世界においては夜こそが本当の顔。昼間よりも遙かに騒がしく、雑多ざったな音が響き渡り、むせかえるほどに濃密な生命の気配に満ちている。

 三〇メートルもある巨大な蛇が地表を這う音がする。

 小山のような怪物たちがのし歩き、大地が揺れる音がする。

 昼の間は巨大な走鳥そうちょうたちに追い立てられ、物陰に潜んでいる獣たち。その獣たちが月の光に誘われて『いまこそ我らの時だ!』とばかりに吠えつづける音がする。

 それらの雑多ざったな音がひとつにまとまり、融合し、うねりをあげて世界を覆う。それはさながら巨大な楽団の奏でる交響曲のよう。ただし、生命が失われる時を告げる危険すぎる交響曲だ。その音量の大きさたるや、人の世の夜の静けさに馴れた人間にとっては、ベッドのなかで耳をふさいで『眠れない!』と怒り出さずにはいられないほどのものだった。

 たしかにこの世界はか弱い人間が独力で生きていけるような世界ではなかった。

 アーデルハイドたちはその脅威の世界を奇跡か、幸運か、あるいはその両方に守られて、生きたまま岩の隙間へと入り込んだ。ほんの少し幸運が足りなければ、三人の帰った場所は岩の隙間などではなく怪物たちの胃袋だったにちがいない。

 その岩の隙間のなかでカンナはボロボロと涙を流して泣きじゃくっている。アーデルハイドの胸に顔を埋めて思いきり泣いたことで少しは気が晴れたようだったが、またすぐに泣き出してしまった。それでも、感情をむき出しにしている分、精神が死んでしまっていた頃よりはずっとましだ。アーデルハイドとチャップはそんなカンナをなにも言わず、ただじっと見守っている。

 「あたし……あたしが、クレタを殺した。殺しちゃった」

 「カンナが殺したんじゃないでしょ!」

 チャップがとうとうたまりかねて叫んだ。

 「クレタが勝手に死んだんじゃない。死人相手にこんなこと言いたくないけど……クレタが馬鹿だったんだよ。せっかく、生き残れるところだったのに自分から死ぬなんて……」

 「あたしが殺したのよ!」

 チャップの言葉に対し――。

 カンナは罵倒ばとうするように叫んだ。

 「あたしがクレタの顔を傷つけたから……だから、クレタは絶望して死んじゃった。あたしのせいで……」

 「で、でも、どっちみち、あのまま放っておいたらクレタは鬼に食べられて死んでいたんだし……」

 「関係ない! あたしがクレタを殺した、ただそれだけ」

 カンナの叫びにチャップはほんの一瞬、ムッとした表情になった。すぐに打ち消しはしたが内心の思いが表に出たのはまちがいない。

 人ひとりを死に追いやってしまった。

 それも、助けたい一心で。

 そんなカンナの心の痛みはわかる。わかるつもりだ。だからと言って、自分が必死になぐさめているのに、こうもかたくなに自分を責める姿を見せられてはカンナに対して腹が立ってもくる。

 「あんなことになるなんて思わなかった。あたしはただクレタに生きていてほしかった。顔を傷つけられれば大闘たいとうさいにえとしての資格を失う。そうなれば、クレタもあきらめて生きる気になってくれる。そう思った。だから、顔を傷つけた。それなのにあんなことになるなんて……思わなかった、思わなかったのよ!」

 カンナは両手で顔を覆ってワンワン泣きはじめた。泣き声がせまい岩の隙間に共鳴し、耐えがたいほどの騒音となって響き渡る。

 これが人の世の夜であれば泣き声が肉食獣を引きよせてしまうことを心配するところだ。しかし、この鬼の世界においてそんな心配をする必要はない。この泣き声よりはるかに大きな音が世界中に満ちているのだから。

 「たしかに……」

 それまで黙ってカンナを見つめていたアーデルハイドが口を開いた。大声を張りあげているわけではない。あらげているわけでもない。かのらしく、静かに、上品に話しているだけ。それなのに、カンナの泣き声を貫くかのようにして耳まで届く不思議な声だった。

 「カンナ。あなたは結果として大変なことをしてしまった。ひとりの人間に死を選ぶほどの絶望を与えた。本来であれば望みを叶え、歓喜のうちに死ねたのに、栄光と賞賛に包まれる死となったのに、絶望の果ての惨めな死を与えてしまった」

 そう言い立てるアーデルハイドに対し、チャップがめずらしく非難がましい視線を向けた。

 ――そこまで言わなくてもいいのに。

 そう思ったのだ。

 カンナの態度に腹を立てていたチャップだが、それはそれとしてやはり、これほど傷ついている友人が責められるのは心が痛む。

 アーデルハイドはつづけた。

 「それは、あなたひとりの責任ではないわ。わたしもそんなことになるなんて想像もしなかった。にえとなることを心から望み、光栄なことだと思う鬼の世界の人間の心を理解出来なかった。いえ、そもそも、わたしたちとちがうことを望み、ちがうことを期待する人間がいるということ自体、考えもしなかった。人間であれば誰も皆、わたしたちと同じことを望み、同じことを期待する。自分でも知らないうちにそう決めつけていた。クレタのことは『自分とはちがう心がある』と言うことを考えられなかったわたしたち全員の罪」

 アーデルハイドはそこまで言ったあと、一息いれてからさらにつづけた。

 「でも、カンナ。わたしたちはそれを知りに来たんでしょう。鬼部おにべはなぜ、人間を襲い、人間を食らうのか。それを知り、人の世に持ち帰るために来たんでしょう。あなたはその使命のために自分の意思でやってきた。しかも、いまは『鬼の世界に住む人間』の心までも伝えなくてはならなくなった。まずは、自分の使命を果たすことを考えなさい。その上でまだ死にたいと思うなら……わたしが殺してあげる」

 「で、でも、アーデルハイドさま……」

 チャップがあわてて口をはさんだ。場の雰囲気に耐えきれなくなり、なんでもいいから空気をかえずにいられなかったのだ。

 「どうやって、鬼部おにべの心を知るんです? 集落からは逃げ出す羽目になっちゃったし……」

 「わたしがなんのあてもなくぶらついていたと思うの?」

 「えっ?」

 「ジュウジャキから聞いていたわ。この世界にはすべての成り立ちを知るもの、『目覚めしもの』と呼ばれる存在がいるということを。目覚めしものに会い、知る限りのことを教えてもらう」

 「目覚めしもの……。どこにいるんです?」

 「須弥しゅみせん。そう呼ばれる山のいただき

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