二三章 差別なき世界を
遙かな草原よりチノという名の老人はやってきた。
ボド・チャグがいかにも『
――そんな世界的博物学者がなぜ、下水の改善を?
ハリエットはそう思ったが、チノはそんなことを説明する気はないようだった。ハリエットに会うが早いか挨拶もそこそこに話を聞きたがった。国王、それもいまや諸国連合の盟主たるハリエットに対し、ろくに礼儀も払わない。そのあたりの浮き世離れした態度はまちがいなく『学者』というものだった。
話を聞き終えたチノは生徒の相談に乗る教師そのままの態度でうなずいた。
「ふむ。なるほど。下水の改善か」
「はい。あのような劣悪な環境で人を働かせておくわけには行きません。そして、あのような劣悪な仕事がある限り、差別もまた、なくならない。差別をなくし、人々が平等に暮らせる世界にするためには『誰もやりたくないけれど誰かがやらなくてはならない仕事』をなくさなければならないのです。そのために……なんとしても、下水環境を改善したいのです。
そのことをボド・チャグ
「ふむ』
と、チノは重々しくうなずいた。いかにももったいぶったその態度が世間一般から見れば『学者ぶっている』と鼻につくことだろう。
「その説明をする前にまず、現場を見て頂こうか」
「現場?」
チノがハリエットを連れてきたのは馬の
「この
ハリエットは戸惑いながら尋ねた。
この
チノはその視線を無視して――浮き世離れした学者らしく、ただ単に気付いていないだけかも知れないが――草原に向けて大きく両手を広げて見せた。
「見るがいい。この草原を。なんとも広大で、しかも、清浄なことではないか」
「え、ええ、そうですね……」
――なんで、そんな当たり前のことを……。
ハリエットはチノの言葉にそう思った。草原が広大で清浄であることなんて当たり前のこと。そんな当たり前のことを言ってどうしようというのでしょう?
チノは言葉をつづけた。
「不思議に思ったことはないかね? この草原にはこれほど多くの馬がいて日々、
「そう言えば……」
ハリエットは虚を突かれて改めて草原を見渡した。
言われてみればその通り。
――当たり前のことなので、いままで気にしたこともなかったけれど。たしかに、考えてみれば奇妙かも。
ハリエットはそう思った。
その隣ではジェイとアステスも同じように虚を突かれた表情で草原を見渡している。
チノはつづけた。
「なぜなら、この草原には生命の循環があるからじゃ」
「生命の循環?」
「そうじゃ。この草原においては馬のひり出した
そして、また
生命の循環とは食われること。自然は食われることによって清浄さを維持しておる。他の生き物に食われることを拒否した人間はまこと、自然の掟に反した生き物。生きる権利ばかりを主張し、生命としての義務を
と、必要もないのに人類批判をぶったりするあたりがいかにも『先生』なのだった。
「下水の不浄さもまさにそこからきておる。生命を
「いえ……」
「およそ、三倍じゃ」
「三倍⁉ そんなに病気にかかりやすいのですか?」
「その通りじゃ。あのような悪臭と
「それは、たしかに」
ジェイとアステスも
下水の実態を知らないうちならば信用しなかっただろう。しかし、その実体を経験したいまとなっては『病気にならない方がどうかしている』という言葉に心からうなずいた。
「病気になりやすいだけではない。寿命も短い。平均すると下水掃除に
「二〇年以上⁉ そんなに……」
「おぬしは国王としてその事実を知っておったかの?」
チノはやや意地が悪そうに尋ねた。
ハリエットは顔を赤くし、縮こまった。
「い、いえ……」
そう言うしかない。実際、いままでそんなことは知らなかったし、そもそも、気にとめたこともない。しかし、そのような劣悪な人生を強いられている人たちのことを知らずにいたのだ。全国民の幸福に対する義務を負う国王としては失格だと言われても仕方がない。
「しかし、わしとて風呂も使えば
だからと言って、下水掃除に
「地下庭園化……」
「そうじゃ。下水にこの自然の
『虫』という
「たしかに」と、ハリエットはうなずいた。
「ですが……」
と、アステス。言いたいことはわかるが納得できない。そう言う表情だった。
「『植物を育てる』と
「うむうむ。いい質問じゃ」
チノは上機嫌になってうなずいた。
生徒がまともな質問をしたことで自分の指導力を再認識し、
「わしもその点が引っかかった。果たして、地下の下水で植物を育てることなど出来るのか、とな。しかし、考えてみれば世界には日の差さない場所などいくらでもある。その代表が地下深くの洞窟じゃな。
そこで、わしは、日の差さない環境を知るために大陸中の洞窟に潜った。するとどうじゃ。洞窟のなかにも
「……清浄にして美しき地下庭園。まったく新しい下水。それは……なんとも、心の沸き立つお言葉ですね」
「そうじゃろう、そうじゃろう」
「そんな下界が実現すれば、そこでの仕事に
「当然じゃな。むしろ、生命の循環を司る誉れある職業として尊敬されることじゃろう」
「それは素晴らしいことです。ぜひとも、実現していただききたいことです」
ハリエットは希望に満ちた顔でそう言った。
「しかし……」と、またもアステスが言った。
「それならばなぜ、あなたはいままでそんな下水を作ろうとしなかったのです?」
「それは単純な話じゃ。ポリエバトルは遊牧の国。おぬしたちのように都市は作らん。都市を作らんのだから下水も作らん。故に、わしの研究も日の目を見る機会がなかった。それだけのことじゃ」
「あ、ああ、なるほど」
アステスも納得した。
言われて見ればたしかにもっともで、しかも、単純な話だった。生まれたときから都市で育ってきたので、遊牧の国の暮らしぶりが想像できなかったのだ。
しかし、下水を作ることのないポリエバトルに下水の改善を考える学者が現れる。
運命の皮肉とはこのことだろうか。ハリエットが下水の改善を
チノはつづけた。
「ただし、地下庭園にも欠点はある」
「欠点?」
「うむ。生命の循環に従ったやり方はたしかに効果的じゃ。しかし、時間もかかれば、あまりにも大量な処理には向かぬ。馬の
「たしかに」と、ジェイ。
「馬の
「そういうことじゃ。じゃから、あまりに大きな都市の下水としてはこの手は使えん。地下庭園を新しい下水として用いるならば、大都市を作って一カ所に大勢の人間を住まわせるのではなく、小さい都市を幾つも作って分散して住まわせ、それらの都市と都市を
ハリエットどの。おぬしは諸国連合の盟主として、それだけのことをする覚悟があるのかね?」
「やります」
きっぱりと――。
迷いなく、ハリエットは断言した。
「下水掃除に
「よくぞ言った。ならば、このわしもおぬしに忠誠を誓い、地下庭園を実現して見せようぞ」
チノはさっそく下水に潜り、実地調査を開始した。
ハリエットたちも礼儀上、同行しようとしたのだが『学識も経験もない素人なんぞいても邪魔になるだけじゃわい。こっちは専門家に任せて、おぬしたちは工事に必要となる費用と人員の工面をしておけ』と、追い返された。
言い方はともかく言葉の内容そのものは正論だったので、ハリエットたちはおとなしく従った。これがレオナルドやウォルターなら激怒して真っ二つにしているところだが、ハリエットたちはこんなことで腹を立てはしない。せいぜい、アステスが苦笑したぐらいのものである。
「なんと言うか……いかにも『学者』という感じの浮き世離れした人物ですね」
「ええ、まったく」と、ハリエットも微笑んだ。
「ても、頼りになります。あの方ならきっと、地下庭園を実現してくださるでしょう。そうなれば……」
――あのような劣悪な環境で人を働かせずにすむ。
国王としてではなく、ひとりの人間としてそう思うハリエットであった。
「しかし……」と、ジェイ。
「我々はもうエンカウン
「わかっています。これは内政であって軍人であるあなたたちの担当でありはありません。これは、国王としてわたしのやるべきこと。こちらはわたしに任せ、あなたたちはあなたたちの為すべきことに専念してください」
「はっ」
ハリエットの言葉に――。
しゃちほこばって答えるジェイとアステスであった。
ふふっ、と、ハリエットはそんなふたりに微笑んで見せた。
「ただ、その前に……わたしもひとつ、思いついたことがあるのです」
「思いついたこと?」
「はい」
その日、下水掃除に
所定の時刻までに王宮に参内するように、と。
それと聞いた人々は
自分たちのように『
「まあ、なんと言ってもハリエットさまだ。レオナルド陛下のような無茶はなさるまい」
ハリエットに対する信頼の方が
広間へと通された人々を出迎えたもの、それは、テーブルいっぱいに並べられたご馳走だった。
驚く人々の前にメイド姿のハリエットと女官たち、さらには、執事の服装に身を包んだジェイとアステスが現れた。
ハリエットは深々と従者の礼を取り、『
「あなた方のご苦労も知らず、
これがハリエットの『思いついた』こと。世間からは
そのための仕組み。
ハリエットの思いつきからはじまったこの儀式こそは『日の当たらない場所で自分の職務に励む人々が報われる場所を作る』という『新しい国』の根幹となっていくのだった。
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