二一章 ハリエットのわずらい

 レオンハルトから戻って以来、諸国連合総将ジェイにはずっと気に掛かっていることがあった。そして、そんなジェイを気に掛けているのが補佐官のアステス。

 ある一点を見つめるジェイ。

 そのジェイを一心に見つめるアステス。

 その構図ははたから見ている分にはおもしろいものだったかも知れない。もちろん、本人たちにとっては『おもしろい』どころではなかったのだが。

 ある日、ついにたまりかねてアステスがジェイに尋ねた。

 「ジェイ総将。やはり、ハリエット陛下のことをお気に掛けておいでなのですか?」

 一応、疑問形をとってはいるが実際にはその必要はなかった。ジェイの気に掛け方はあまりにも露骨ろこつなもので、アステス以外にもわかりきっていたからだ。

 全幅の信頼を置く補佐官の質問にジェイはうなずいた。

 「……ああ。レオンハルトからお戻りになられて以来、どうにもふさぎ込んでおいでだからな」

 もちろん、ハリエットのそんな態度にはアステスも気がついていた。

 と言うより、ハリエットの周囲の誰もがわかっていたことだ。職務は以前とかわらず熱心にこなしているし、人当たりが悪くなったわけでもない。それでも、以前よりたしかに口数が少なくなっていたし、うつむいている様子も多く見られるようになった。『ふさぎ込んでいる』と言うよりは『考え込んでいる』と言った方が正しいのだろうけど。

 もともと、ハリエットは真面目でおとなしい性格。人混みのなかにあって目立つような型の人物ではないし、パーティーに出席して絢爛けんらんたる花として咲き誇ったり、宮廷内の恋愛れんあい遊戯ゆうぎ没頭ぼっとうしてを流したり……などと言うことにも無縁だった。

 放っておけばひとり黙々といつまでも職務に励んでいる。

 そんな人物。かつてのレオンハルトの貴族社会では『暗い』、『地味』と言った陰口もよく叩かれていた。いや、『陰口』とは言えないかも知れない。誰もが公然と口にしていたし、面と向かって言われることもあったほどだから。

 本来であれば、レオンハルト屈指の大貴族であるヒーリー男爵家の令嬢であり、しかも、勇者ガヴァンの婚約者であるハリエットに対し、そんな口を利けるものではない。そんなことをして不敬ふけいざいで訴えられるならいい方。ひどい場合は裏から手をまわされてどんな目に遭うかわかったものではない。

 しかし、なにしろ、当のガヴァンその人が面と向かって『暗い』だの『地味』だのと言って小馬鹿にしていた。その上、ハリエット自身が『そんな仕返しなどしない』と、言わば『められていた』ので、まわりもまったく遠慮することがなかった。まさに、言いたい放題だったのだ。

 ハリエットはそんな状況のなかでも各国との外交や鬼部おにべの動向の確認、拠点の確保など、ガヴァンやウォルター、レオナルドたち、国王三きょうだいが目を向けなかった職務を黙々とこなしてきた。その態度がまた『暗い』、『貴族令嬢らしくない』と、言われる結果になっていたのだが。

 その意味では以前と同じと言える。とは言え、最近のその態度はさすがに度が過ぎていた。なにしろ、仕事がないときはそれこそ一日中でもジッとうつむき、身動きひとつせずになにやら考え込んでいるのだから。見せられる側にとっては相当にうっとうしい姿である。

 もちろん、ジェイがハリエットのことを気に掛けていたのは、そんな理由からではない。純粋にハリエットのことを心配していたのだ。

 「レオンハルトから戻って以来、ずっとあのご様子。度重なる交渉事でお疲れなのかと思っていたが、一向にもとに戻られる様子がない。それどころか、日いちにちとひどくなっていくご様子。なにがあったのか、どうにも気になってな」

 「ならば、直接、お尋ねになってみればよいでしょう」

 「尋ねる?」

 「そうです。遠くから見守っていたからと言ってなにもわかりません。ご心配なら直接、聞いてみるしかないでしょう」

 「しかし……臣下たる身で陛下の御心みこころに踏み込むような真似は……」

 その言葉に――。

 アステスは居住まいを正した。優柔不断な生徒を叱りつける厳格な教師の口調になった。

 「ジェイ総将。これはれっきとした公務です。ご自分でも自覚なさっておいでのはず。そうして、ハリエット陛下のことを見守っておられるばかりに職務に費やす時間が減り、羅刹らせつたいの訓練にも影響が出ているのですよ」

 「うっ……」

 「逆襲の切り札たる羅刹らせつたい。その羅刹らせつたい鍛錬たんれんがおろそかになれば今後の戦況に多大な悪影響を及ぼします。

 ポリエバトルとオウランから送られてくる土木作業用の人員が到着すれば、地下通路を使ってのエンカウン強襲作戦が開始されます。そして、到着の予定日まではもう間もなく。総将たる身が心配事を抱えて心ここにあらず、などという状態では話になりません。一刻も早く解決し、心置きなく強襲計画に専念できるようにすべきです」

 アステスは文字通り『立て板に水』の勢いでまくし立てた。いろいろ理屈をこねてはいるが要するに『ハリエットを心配して遠くから見守るジェイ』の姿など見せられたくないのである。

 とは言え、形としては正論そのままだったのでジェイとしても無視するわけには行かなかった。なんと言ってもかのには諸国連合総将としての立場があり、その立場に付随ふずいする責任の重さは私事とは比較にならない。

 ジェイは溜め息をついた。ようやく、どうにか、覚悟を固めたらしい。

 「……わかった。たしかに、お前の言うとおりだ。いつまでもこうしていてもラチが明かない。直接、ハリエット陛下にお尋ねするとしよう」

 「そうしてください。ところで……」

 アステスが急に胡散臭げな視線を向けた。

 「なんだ?」

 「まさかとは思いますが……もしして、ジェイ総将、恋愛経験がないのですか?」

 「い、いきなりなにを言っている⁉」

 「いえ、あまりに奥手に感じられたものですから」

 「い、いいから、行くぞ! ついてこい」

 ジェイは真っ赤になって怒鳴ったが、それが怒りのためではないことは明らかだった。

 アステスは隠す風もなく大きな溜め息をついた。

 「……図星か」

 勇者ガヴァン亡きあと、いまや人類最強の戦士と言ってもいい総将ジェイ。そのジェイにも意外な弱点があったのだった。


 ジェイとアステスはハリエットの政務が途切れる瞬間を狙って私室を訪れた。

 私室とは言ってもジェイやアステスをはじめ、国の内外の要人との非公式の会談が行われる舞台でもある。しかも、そちらの方が重要な会談であることもめずらしくない。その意味では『影の執務室』とでも言った方がふさわしい場所ではあったが。

 相変わらずベッドに、卓に、椅子という最低限の調度品しかない殺風景な部屋であったが、三人とも華美には興味のない身であったので問題にもならない。完全に形式のために用意された、茶菓子も添えられていないハーブティーを前にして、三人は非公式の会談を行った。

 「……たしかに、気付かれて当然でしょうね。ここ最近は自分でもふさぎ込んでいると感じていましたから」

 ジェイに尋ねられ、ハリエットはそう答えた。

 「レオンハルトでなにかあったのですか?」

 「各国との交渉でなにか問題でも?」

 ジェイにつづいてアステスがそう尋ねた。

 実際には尋ねる意味のない質問ではあった。政務上のことで悩んでいるならハリエットがジェイやアステスに相談しないはずがないからだ。

 勇者ガヴァンが最強の力をもちながらその傲慢ごうまん独善どくぜんのために滅びたさまを間近で見続けてきたハリエットである。他人を信頼し、相談することの大切さは骨身に染みている。

 「……いえ」

 と、ハリエットは短く答えてからつづけた。

 「各国との交渉はおおむねうまく行きました。そのことは、おふたりにも報告しているとおりです」

 ジェイとアステスはうなずいた。

 ふたりとも軍人であり、外交や内政は専門外である。しかし、ハリエットの個人的な腹心ふくしんとして相談役も務める身。外交や内政に関してもハリエット本人から聞かされているし、隠し事をしているとは思っていない。

 「ただ、アンドレアさまとのお話のなかで気になることがあったのです」

 「アンドレア陛下がなにを?」

 「アンドレアさまは御子みこであるアートさまを生んだあと、ずいぶんとご苦労なされたそうです。赤ん坊連れでは出来る仕事も少なく、その頃は皿洗いでも下水道の掃除でもなんでもやったと」

 「皿洗いに下水掃除⁉ アンドレア陛下がそんな仕事をされていたと言うのですか⁉」

 アステスが思わず叫んだ。人によっては『人類第二の美貌びぼう』とまで称する愛らしい表情が驚きに包まれている。

 こくり、と、ハリエットはうなずいた。

 「わたしも同じことを言いました。『そのような仕事をされたのですか?』と。でも、アンドレアさまにたしなめられました。『下水に潜るものがいなければ風呂もかわやも使えなくなる』と」

 「それは、たしかにそうですが……」と、ジェイ。

 「そう言われたとき、気がついたのです。わたしがこの国を作ったのは『日の当たらない場所で地道に自分の職務に励む人が報われる場所を作る』、そのためだったはず。それなのに、わたし自身が皿洗いや下水掃除と言った仕事に従事じゅうじする人たちを無意識のうちにさげすんでいた。そのことに気がつかされたのです」

 「……しかし、それは問題のあることですか?」

 アステスがどこか不満そうな様子でそう口にした。

 「どんな世界でも上にのぼっていくものたちはそれだけの努力をしているのです。鍛錬たんれん鍛練たんれんを重ね、必死に上にのぼっていく。そうしてよりよい職、よりよい立場を得ていくのです。努力もせずに底辺にとどまっているものがさげすまれるのは……」

 当然でしょう。

 ハリエットはその言葉をアステスに言わせなかった。真摯しんしな瞳でじっと見つめ、手厳しく指摘した。

 「アステスきょう趣旨しゅしがよくわかっていないようですね。仮に、あなたの言うようにすべての人間が必死に努力してよりよい職、よりよい立場についたとしましょう。その結果、皿洗いや下水掃除をする人がいなくなる。すると、どうなります?

 店はお客さまに出せる皿がなくなり、家庭の台所は汚れ物で埋まってしまう。風呂もかわやも使えなくなってしまう。あなたはそんな暮らしに耐えられるのですか?」

 「い、いえ、それは……」

 アステスは愛らしい美貌びぼうを赤く染め、うつむいた。

 きわめて熱心な努力型の人間だけに努力しない人間に対して手厳しくなるとは言え、差別主義者ではない。自分の発言のうかつさに気がついたのだ。

 「たしかに」と、ジェイがうなずいた。

 「皿洗いも下水掃除も世の中に必要な仕事です。それなのに、私たちはそれらの仕事も、それらの仕事に就いている人たちも当然のように低く見ている。私自身、皿洗いや下水掃除の職に就きたいとは思いません」

 「誰だってそう思うでしょう。わたしもそうです。そして、現にいま、その職についている人たちだって、できることならもっといい職に就きたいと思っていることでしょう」

 ハリエットはそう言うと重々しくうなずいた。自分自身の決意を告げるように。

 「理不尽なことです。わたしたちの暮らしを支えてくれている大切な職。その職に従事じゅうじしている人たち、それらを低く見、さげすんでいるなんて。こんなことでは『新しい国』を打ち立てた理念に反します。早急に改善する必要があります。そのために……」

 「そのために?」

 「下水掃除を体験してみようと思います」

 ハリエットのその言葉に――。

 ジェイもアステスもさすがに飛びあがって驚いた。アステスなどは国王相手にもかかわらず叫んだほどだ。

 「正気ですか⁉ 国王陛下ともあろうお方が下水掃除をしようなどとは……」

 これがレオナルドであれば一睨ひとにらみで処刑台に送り込むところだ。もちろん、ハリエットはそんなことはしない。非礼をとがめるのではなく、説明した。

 「国王だからこそ知っておく必要があるのです。わたしたちの暮らしを支えてくれる人たちが実際にどのような暮らしをしているのか。それを知らずしてどうして、人々の幸福を築けると言うのです?」

 「しかし……」

 なおも渋るアステスに向かい、ジェイが言った。

 「いや、アステス。陛下のおっしゃるとおりだ。おれも最初は驚いた。しかし、考えても見ろ。お前も軍指揮官として現場を知ることの大切さは承知しているはず。その現場を知らず、自らの立場におごたかぶればどうなるか。そのことは勇者や熊猛ゆうもう将軍しょうぐんが証明したとおりだぞ」

 自分の唯一の上官。そう思う相手の言葉に――。

 アステスはハッとした様子で居住まいを正した。

 勇者たちのてつは踏まない。

 それは、ハリエットたちのみならず諸国連合全体にとっての最大の指針である。

 「失礼しました、陛下。たしかに、現場の苦労を知ることは必要です」

 「と言うわけです、陛下。私とアステスも下水掃除にお付き合いさせていただきます」

 「ええ。よろしく、お願いします」

 ハリエットはニッコリ微笑んでそう言った。

 三人とも、このときはまったく知らなかった。この軽い気持ちでの決断が人生最大の後悔を招き寄せることを。

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