10話  胸さわぎ  2 

「大変、申しわけございません」


 その日、渡部が頭を下げたのは三度目だった。


 出入り禁止の効力は強く一真の不在中、優は一度も顔を出さない。一真が札幌に戻って五日、手渡すはずの土産が冷蔵庫を陣取じんどっていた。


「渡部さんが、あやまる話じゃない。

 来たければ、おかまいなしで遊びに来る。

 それが、小娘のいいところでしょう?」


「普通、それを短所と呼びますが……」


「今日はきっと早番か休みだよ。

 スキップして公園に来るさ」


「もし、いらっしゃいましたら、ホテルにも顔を出すようお伝え下さい」


 一真は笑ってうなずくが、一瞬で顔がくもる。スタッフとの会話も重く、いらだつ気持ちを抑えられない。優が顔を見せないかぎり、『明日の約束』は途切れたままだった。




 優が公園に顔を出したのは翌日の午後、一真がベンチに腰を下ろしてから二時間が経っていた。


 南側車道をスキップする姿に、一真は片手を上げて合図を送る。しかし、優は紙袋をふりまわし、常緑樹の隙間を通り抜けて行く。


「おい!」

 と、一真が立ち上がると、ヒザの上の文庫本がアスファルトに落ちた。


「留さ~ん、久しぶり。いつ、東京から戻ったの?」

「東京じゃないよ。僕は……」


 一真の口を封じたのは鼻につく香りだった。

 ほんのり色づいていた頬は、人工的な赤みに変わり唇にはグロスが光る。

 女に目のえた視線が品定めを終えると、一真は顔をのぞき込んだ。


「あのね、芳香剤つけ過ぎなの」

「香水ですけど……」

「五月病か? ちょっと早いよ」


 一真はベンチに腰を下ろし笑い出す。袋の中に春の色を見つけ、勝手にテープをはがした。


「服もこんなに買って、何に目覚めたの?」

「――女」

「はぁ?」

「女としての価値を高めたいの」


「君にそんな価値なんてないよ。鼻水をたらしていた方が希少価値は高い。

背伸びをするだけ無駄な努力だ。似合わないから止めときな」


 一真は鼻で笑うと文庫本をひろう。いつまで経っても横に座らない優に視線を戻した。


「どうしたの? となりにおいで」

 一真が手招くと優は首をふる。一歩二歩と距離を取った。


「留さん、街はすっかり春ですねぇ~ 

 さぞかし、ベンチも座り心地がいいでしょう」


「君が言った通り、桜とライラックが楽しみだ」


「それはよかった。ごゆっくり札幌の春をお楽しみ下さい。

 それでは、ごきげんよう。さようなら」


「帰るの?」

「バイバイ、留さん」

「ちょっと待ちなさい。渡部さんが……」


 一真が立ち上がると鈴の音はもう聞こえなかった。


 優は一度もふり返らず、交差点を駆けて行く。春の風がベンチの真上の桜を揺らす。ひそひそ話を一真にささやき、不安な心をあおっていた。



             ◇



「花村様が変……いつも変なので、気になりませんが?」


 その夜、将棋盤をにらむ渡部が、一真の疑問に即答した。


 フロント奥には六帖ほどのスタッフルームがある。夜勤のフロントマンが来るまでの勝負だった。


「いつも以上に変なの。口紅をひいて色づいた感じ」

「――恋ですね。おそらく、お相手は一真様でしょうか?」


 渡部の言葉に次の一手を打ち間違える。渡部に王手を決められ将棋盤を一真はかきまわした。


「鼻水たらしたガキ相手に、何ができるのさ」

「手を繋いだり、お話をしたり?」


「僕は、ベッドがきしんだり、上になったりするのが好きなの」

「花村様も女性です。数年後、美しい姿になるかもしれません」


 渡部の言葉に、駒を並べる一真の手が止まった。


「あの娘にかぎって、そんな時代はこない」


「三つ編みを卒業されました。当然、恋もするでしょう。

 まあ、想像すると笑えますが……ふっ……」


「恋の相手が僕じゃ、かわいそうだ」

「一真様の決めることではございません」


「渡部さんだって知っているでしょう?」

「一真様」

「今夜は渡部さんの勝でいいや」


 並べかけた駒をケースに戻し、一真はスタッフルームをあとにする。

 行き場のない土産は、締め切られた冷蔵庫の中で凍えている。

 それは冬の日、赤いカサを待ち続けて眠る自分に見えた。

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