9話   胸さわぎ   1

「花村~ 何をぼさっとしている。さっさと片づけろ!」

「は~い」


「言われて、こなすのは労働。みずから動くのが労働力だ」

「は~い」


 優の声は宿泊客がいないぶん、ロビーまでよく響き渡った。


「おまけ採用は、よく働くねぇ~」

 将棋盤をにらむのは、フロント担当の川下かわしただった。


「花村は、ひろいもんだ。

 渡部総支配人に、礼を言わなきゃならねぇ~な」


 風間が飛車ひしゃを打つ。声を張りあげていたのは中華料理人の須磨すま敏之としゆき、二十五歳。日に何度も優を呼ぶ。


「気に入られたな」と、風間が笑う。

「お似合いじゃねぇ~の」と、川下が王手を決めた。




 須磨の作る中華は評価が高い。端正たんせいな顔立ちだが、人柄は気さくで、ホテルスタッフ好感度は一位だ。


 優は時間があると柱に背中を預け、須磨を目で追う。燃え盛る火に擦れたなべから火の粉が散り、吹き出す額の汗は、働く男の姿だった。


「花村さん? おめめがハートだよ」


 かおるが手をひらひらさせるが反応はなく、優の視線は須磨から動かない。


「分かりやすいね」

 とかおるが笑う。その横で藍川が首をかしげていた。


「留さんはいいの? 三角関係になるわよ」

「なりません」

「だって、仲良しでしょう?」

「仲良しだけど、留さんはだめなの」

って、どう言う意味?」


「そろそろ、離れなきゃいけない。

 でも、留さんは大丈夫。もう、支笏湖しこつこには行かないよ」


 優の言葉に藍川とかおるは顔を見合わせる。


「花村~ちょっと来い」

 と、須磨に呼ばれ、優は走り出した。


「いいのかしら?」


 藍川の問いに、かおるが首をかしげる。


「――つき合っていないなら、いいと思います」


 藍川とかおるが厨房をのぞくと、須磨を真似て中華包丁を使う優が見える。

 笑い合う二人は、誰の目にも好意を寄せているのが分かる景色だった。




 その夜、化粧を整える藍川とかおるは、鏡に映る優に何度も視線を流していた。

 新人三人が暮らすマンションは、道路を一本はさんでホテルの真向かいにあり、二百十二号室が寮になっていた。


「ねえ、かおるさん。最近、夜になるとベランダに石が当たるのよ。

 あれは、何かしらねぇ~」


「ああ~わたしも気になっていました。確か、九時を過ぎたあたりですよ。

 今夜もそろそろ、石が飛んで来るんじゃないですか~」


 二人は、お笑い番組を見て笑っていた優を無口にさせる。


 藍川とかおるはこれから飲み会だが、優は誘いに乗ってこない。


 お留守番を気取る顔は落ち着きがなく、携帯電話と窓を交互に眺めている。かおるはテレビの前に腰を下ろし、優の視線をさえぎった。


「ねえ、毎晩どこに行っているの?」

「ホストクラブ……」

「嘘吐き」


 かおるがにらむと、優は視線を天井に向ける。

 その顔を見て藍川が笑い出した。


「そんな眉毛で、デートに行くの? 勇気があるわね」


 藍川はしまいかけたメイク道具を机に並べる。

 鼻唄交じりで眉毛を整え、余計な部分を毛抜きで抜く。

 抵抗しないのをいいことに、かおるも優の顔をいじり出した。


 二十分後、平べったい顔は、二人の手で立体的に変わっていた。

 鼻筋が通り、つけまつげで目元はひとまわり大きくなる。

 仕上げに藍川が赤い口紅を塗ると、小顔が華やいで見えた。


「かわいいよ~」


 藍川が手鏡を渡すと、自分の顔を見たとたん、優が吹き出す。


「誰だ、こいつ?」

 と言いながら、じゅうたんを転がっていた。


「お化粧も社会人のマナーだよ。いつでも教えてあげるからね」


 藍川の言葉に、優は体を起こした。


「ありがとう」

「須磨さんと楽しんでおいで」

「うん」


 優がうなずくと、頬の赤みが濃くなった。


 ルームメイト達との暮らしは、優に新しい風を運ぶ。

 毎夜、連れ出す須磨に手を引かれ、一気に上るのは大人の階段だ。そして、この夜も窓を眺め、須磨の鳴らす着信音を待ち続けていた。

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