9話 胸さわぎ 1
「花村~ 何をぼさっとしている。さっさと片づけろ!」
「は~い」
「言われて、こなすのは労働。みずから動くのが労働力だ」
「は~い」
優の声は宿泊客がいないぶん、ロビーまでよく響き渡った。
「おまけ採用は、よく働くねぇ~」
将棋盤をにらむのは、フロント担当の
「花村は、ひろいもんだ。
渡部総支配人に、礼を言わなきゃならねぇ~な」
風間が
「気に入られたな」と、風間が笑う。
「お似合いじゃねぇ~の」と、川下が王手を決めた。
須磨の作る中華は評価が高い。
優は時間があると柱に背中を預け、須磨を目で追う。燃え盛る火に擦れたなべから火の粉が散り、吹き出す額の汗は、働く男の姿だった。
「花村さん? おめめがハートだよ」
かおるが手をひらひらさせるが反応はなく、優の視線は須磨から動かない。
「分かりやすいね」
とかおるが笑う。その横で藍川が首をかしげていた。
「留さんはいいの? 三角関係になるわよ」
「なりません」
「だって、仲良しでしょう?」
「仲良しだけど、留さんはだめなの」
「だめって、どう言う意味?」
「そろそろ、離れなきゃいけない。
でも、留さんは大丈夫。もう、
優の言葉に藍川とかおるは顔を見合わせる。
「花村~ちょっと来い」
と、須磨に呼ばれ、優は走り出した。
「いいのかしら?」
藍川の問いに、かおるが首をかしげる。
「――つき合っていないなら、いいと思います」
藍川とかおるが厨房をのぞくと、須磨を真似て中華包丁を使う優が見える。
笑い合う二人は、誰の目にも好意を寄せているのが分かる景色だった。
その夜、化粧を整える藍川とかおるは、鏡に映る優に何度も視線を流していた。
新人三人が暮らすマンションは、道路を一本はさんでホテルの真向かいにあり、二百十二号室が寮になっていた。
「ねえ、かおるさん。最近、夜になるとベランダに石が当たるのよ。
あれは、何かしらねぇ~」
「ああ~わたしも気になっていました。確か、九時を過ぎたあたりですよ。
今夜もそろそろ、石が飛んで来るんじゃないですか~」
二人は、お笑い番組を見て笑っていた優を無口にさせる。
藍川とかおるはこれから飲み会だが、優は誘いに乗ってこない。
お留守番を気取る顔は落ち着きがなく、携帯電話と窓を交互に眺めている。かおるはテレビの前に腰を下ろし、優の視線をさえぎった。
「ねえ、毎晩どこに行っているの?」
「ホストクラブ……」
「嘘吐き」
かおるがにらむと、優は視線を天井に向ける。
その顔を見て藍川が笑い出した。
「そんな眉毛で、デートに行くの? 勇気があるわね」
藍川はしまいかけたメイク道具を机に並べる。
鼻唄交じりで眉毛を整え、余計な部分を毛抜きで抜く。
抵抗しないのをいいことに、かおるも優の顔をいじり出した。
二十分後、平べったい顔は、二人の手で立体的に変わっていた。
鼻筋が通り、つけまつげで目元はひとまわり大きくなる。
仕上げに藍川が赤い口紅を塗ると、小顔が華やいで見えた。
「かわいいよ~」
藍川が手鏡を渡すと、自分の顔を見たとたん、優が吹き出す。
「誰だ、こいつ?」
と言いながら、じゅうたんを転がっていた。
「お化粧も社会人のマナーだよ。いつでも教えてあげるからね」
藍川の言葉に、優は体を起こした。
「ありがとう」
「須磨さんと楽しんでおいで」
「うん」
優がうなずくと、頬の赤みが濃くなった。
ルームメイト達との暮らしは、優に新しい風を運ぶ。
毎夜、連れ出す須磨に手を引かれ、一気に上るのは大人の階段だ。そして、この夜も窓を眺め、須磨の鳴らす着信音を待ち続けていた。
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