8話 社長来札 2
「そうか……まあ、お前の好きにすればいい。
ところで、あのスパイは何だ?」
首をかしげる次郎に、一真が笑い出す。
「僕の命の恩人だよ」
と伝え、一真は目を細めた。
「叔父さんは、ゆっくりできるの?」
「いや、明日の便で東京に戻る。
お前に知らせたい話があって今日は来た。
『誰にも
「何?」
「お前の母親の話だ」
一真は顔も思い出せなかった。
物心がついて恋しがった記憶もない。『憎め』と教わった通り、金に換えた母親を憎んで生きてきたはずだった。
「見舞いに行って来い。後悔するぞ」
次郎が渡した封筒には、病院名と住所を記したメモが入っている。同封された写真には、幼い一真をヒザに抱いた女性が写っていた。
◇
翌日、北澤次郎は真っすぐ
オーダースーツのえりを整え、某ブランドのネクタイを締め直す。立ち寄ったのは五階建ての老舗ホテルだった。
フロントは無人で、『いらっしゃいませ』のプレートが一つ出迎える。これと言って目にとまる備品もなく、ホテルを見まわすのに一分もかからなかった。
次郎は観葉植物の隙間から、レストランをのぞく。ランチタイムが終わり『ホテルサンピアーザ札幌』でも人の波が収まる時間だ。しかし、席は埋まり入り口には
客席が少ないと言えばそれまでだが、活気のよさは次郎のホテルの上をいく。
威勢のいい声が厨房から聞こえ、ホールを走る優は額に汗をにじませていた。
『一真様は、ご友人と笑っております』
渡部から聞いた一真の日常に、次郎は半信半疑だった。しかし、昨日見た一真の顔からとげとげしさが消えている。叔父である次郎でも笑う顔は、めったに見たことはなかった。
「何をやっているの?」
優と目が合い次郎は言葉に詰まる。かっぷくのいい腹まわりはヤシの木に隠れるような、サイズではなかった。
「スパイ活動中だ」
「あのね、叔父さんと遊んでいるひまはないの」
「お前に話がある」
「何?」
「一真にことづけを頼まれた」
「ことづけって、社長は甥っ子のパシリ?」
「いいから聞け。
一真は札幌を離れるから、公園に行けないそうだ」
「へ~え」
「寂しいか?」
「いずれ、東京に帰ると思っていたから平気だよ。
でも、留めさんと話ができて楽しかった」
「どうして一真を『留さん』と呼ぶ?
あの男にあだ名をつける者など、東京にいないぞ」
「自分の名前をいやがっていたから」
「いろいろ事情があってな……」
「名前を隠したって過去はついてくるし、逃げるなら悩みは解決しない。
どんな時代も自分だって認められなきゃ、北澤一真に未来はないね」
優の真っすぐ見返す視線に、次郎は息をのんだ。
今朝、一真に念を押されたのは、『泣かせないでね』だった。
そして、一真はこう続ける。
『あの娘、人見知りで、僕がいないとだめなんだ』
しかし、腕を組む姿は一真より堂々として見える。次郎には同じ人物に見えなかった。
「花村優と言ったな? お前は音楽が好きか?」
「好きですよ。特に演歌とアニメソング」
「クラッシックは?」
「眠くなるからいやって、もうタイムリミット。
戻らなきゃ、首になっちゃう」
「最後に一つ」
次郎は優の腕をつかみ人差し指を立てた。
「一真は十日もすれば札幌に帰って来る。そこで頼みだ。
時々、一真の安否を連絡してくれ」
「面倒くさいね」
「あいつは甘ちゃんだが、賢い色男だ。
これからも仲よくしてくれ」
次郎は優の頭を両手で撫で、「お前はいい子だな~」と笑う。
「やめて、叔父さん」
と、いやがる仕草が一真と似ている気がした。
「空港に向かってくれ」
運転手に告げたあと、次郎は腕を組んだままだった。
「お嬢様には、お会いできましたか?」
秘書が問いかけても、返事をしない。
「おもしろい方でしたね。
「とぼけた顔だが、いい目をしている。
いくら、にらみつけても目をそらさん」
「わたくしどもは、すぐそらします。大物ですね」
「ん……将来が楽しみだな。
いずれ、世に出るかもしれん」
「世に出る……ですか……」
運転手と秘書は顔を見合わせた。
「身元調査は、いかがいたしましょう?」
「いらん。人を知るのに身元など必要ない。
俺は、そう言う北澤の感じが大嫌いだ」
「社長はいつもそうでした」
秘書は、笑いながらうなずいた。
「しばらく、一真を花村に任せる。
どうやら、この街の空気が合うようだ。
札幌にいることは内密にしろ。分かったな」
「かしこまりました」
「俺の思い違いか、一真を知っている気がする」
「え?」
秘書が聞き返しても、次郎は無言だった。
たった二日の札幌視察だが、一真の笑顔を手土産に次郎は札幌をあとにする。
その日から、大通公園八丁目のベンチに、一真の姿はない。ふくらんだ桜のつぼみが、空っぽのベンチに寄り添い、開花のときを待っていた。
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