8話 スィートルーム
「分かってるよ!
何もしてないよ」
刺すような視線は、一時間前と同じだった。
ベンチに投げておくわけにもいかず、優を背負って来た姿にホテルスタッフが騒ぎ出す。スクールコートを見て、出迎えた渡部もメガネを直していた。
「一真様、ここは連れ込みホテルではございません。
しかも中学生、犯罪ですよ!」
「高校生だよ」
「同じことです!」
「この娘、熱を出しているの。
いいから医者を呼んで」
受話器を取ったのは、若いフロントマンだった。
三つ編みに気がついたのは、案内係の山崎さおりだ。
「花村さん?」
の言葉で、渡部も三つ編みを上げて顔を確認する。
荒い呼吸を繰り返し、額には粒状の汗がにじむ。熱は三十九度を超え、医者の見立ては
「顔色が良くなりました。もう、大丈夫でしょう」
山崎の言葉を聞いて、一真はベッドから立ち上がる。
「あとは、
「はい。わたしがつき
「スカイラウンジにいるから、目が覚めたら呼んで」
「かしこまりました」
山崎の一礼を受け、一真はベッドルームをあとにした。
街を一望できるスカイラウンジは二十七階に位置する。
上の階は、すべてスイートルームのハイクラスエリアだ。
スカイラウンジの東側は全面ガラス張りで、四十六席のうち二十席が窓に面している。一真のお気に入りは一番左端の席だ。
窓から見える夜景は色鮮やかで、澄んだ冷気がなせる技に、いつも見とれていた。
「気がつかれましたよ」
渡部の声に一真はうなずく。背中を向けたままで、夜空から視線を離さない。
「ホームレスの『留吉さん』を、お探しのようですが?」
「ん……世話をかけたね」
「花村様は、桜餅を渡すと騒いでいらっしゃいます」
「あの娘、『花村』って言うんだね。
風邪をひかせたのは僕だ。
そろそろ、終わりにしないといけない」
一真はジンを口に運び、いつもよりゆっくり飲み干す。重い腰を上げたのは五分後、エレベーターホールを抜け、廊下まで来ると部屋が騒がしい。
「留さん、どこ――!」と、「お止め下さい」の叫び声が響く。
一真がドアを開けると、制服姿でスタッフの腰を踏みつける優が見える。山崎は、一真の顔を見て頭を下げていた。
「止めなさい」
「留さん、どこにいたの? 心配していたんだよ」
「僕は、そのフロントマンが心配だ」
優から逃れたフロントマンは、涙目だった。
何をされても従順な青年で、渡部の姿を見て泣きながら足元にすがりついていた。
「なんてことを、花村様」
「あれ? 銀縁メガネだ」
「渡部ですが」
「なんで、ここにいるの?」
「働いているからですよ!」
「――もしかして、ホテルサンピアーザ?」
優の視線が部屋をひとまわりすると、一真はうなずく。
「留さん?」
「僕は留さんじゃない。それにホームレスでもない。
家と仕事は東京にあって、札幌には観光で来た」
「観光……」
「叔父がここのオーナーで、好意で暮らしている」
一真はソファーに腰を下ろし、優を見上げると親しみやすさが消えていた。
ホームレスの誤解を解くチャンスは何度もあった。
あえて口をつぐんだことで、嘘吐きと呼ばれる可能性が高い。
一真は、テーブルに散らばる飴を手に取り、ため息をついた。
「誤解をさせて悪かったね。
僕は、お菓子をもらわなくても飢えたりしない。
だから、君は寒い思いをして公園に来ることはないよ。
僕も行かない……そう言うことだ」
きっかけは気まぐれでも、誠実に約束を守ったのは事実だった。
もう一度、見たいと願うのは緩めの三つ編みだ。
ほどけた髪は毛先が跳ねあがり、肩のあたりでからまっていた。
一真は優の顔を眺めたあと、渡部に向かって右手を上げる。車の手配を指示すると、「気をつけて帰りなさい」の言葉を贈る。
部屋の中央でポツンと立ちつくす優に背中を向け、一真は足早に部屋を出て行った。
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