9話  聞き分けのない心

 その夜、一真はラウンジでジンを飲み直す。カウンター正面の渡部が差し出したのは、オレンジ色のカクテルだった。


器用きような総支配人だね」


「ここに立つのは、わたしの趣味です。それより、お知り合いとは驚きました」

「ちょとね。高校生をからかいすぎた」

「以前、いただいたお菓子は、花村様ですね?」

拷問ごうもんのように毎日もらうんだ。助けが必要でしょう?」


 一真は、笑いながらカクテルを飲んだ。


「僕は、このホテルをすぐに出るつもりだった。それなのに、あの娘のせいで予定が狂った」


「ご予定とは?」

「支笏湖」

「一真様……」


「予定だけじゃない。どうも、あの娘のペースで調子が狂う」

 カウンターに転がる飴を一つ、一真は指ではじいた。


「こんな飴で寿命が延びるなんて、情けない話だ」


賢明けんめいな、ご判断だと思います。いつか、支笏湖へ行けなかったことを、花村様に感謝をする日が来るといいですね」


「もう、会うことはない。僕も、そろそろ東京に帰る」

「長期休暇と、聞いておりますが?」

「世話になった。明日、チェックアウトするよ」


 カクテルは、大通り公園を思い出させる夕日色をしていた。

 一気に飲みほし、寂しがる心を酒でだます。

 酔いつぶれるまでには時間がかかる、聞きわけのない夜だった。




 翌日、空港に向かう途中で、一真は運転手に声をかけた。

 時計は午後二時をまわったあたりだが、十一丁目の地下鉄駅を過ぎると雪道を歩きたくなった。


 八丁目のベンチに人影はなく、横に並んでいた雪だるまは、跡形あとかたもなく壊されている。通い詰めた大通公園に、赤いカサは咲いていなかった。


 ベンチに腰を下ろし、一真は初めて札幌に来た日と同じ体感を試みた。しかし、いつまでたっても眠気はこない。


 目を閉じて、青信号で鳴るメロディーを数回聞き流したころ、「お兄さん?」と、声をかけられ薄目を開ける。


「あんた、死ぬ気かい?」

 顔をのぞいたのは六十代の女性で、ふくよかな頬で笑っていた。


「はんかくさいね~ こんなところで寝ていたら、風邪をひくよ」


 缶コーヒーを渡され、一真は頭を下げる。

 寒さでしびれた指先に、ちょうどいい温度だった。


「春まで、もう少しだ。生きていればいいこともある。お兄さんもがんばれ~」


 一真は、肩を叩かれ苦笑いで返す。


 ホームレスと間違われることに慣れたのか、腹も立たない。そして、次に通りかかった白髪の老人は、一真が飲んだコーヒー缶を松のあたりに捨てた姿に、


「ポイ捨て禁止!」

 と怒鳴どなる。小柄だが声は大きく、公園の清掃員と名乗った。


「大通公園は、みんなのいこいの場だ。爪楊枝つまようじ一本でも捨てさせねぇ~からな」


「――すみませんでした」


「ホームレスだって、モラルは守らねぇ~とな。春になったらゴミを分けてやるから、心配するな」


「……どうも」


 一真は軽く頭を下げる。


 顔が不幸なのか、札幌市民は良心的だ。清掃員からもらった田舎饅頭いなかまんじゅうを握りしめ、ベンチに座っていれば、生活に困らない気がしてきた。


 君の暮らす札幌は、いい街だ――


 一真は、チラチラ降り出した雪を見上げる。三時を知らせる時計のアラームを聞いて、諦めるにはちょうどいい時間だった。


 すると、背後から鈴の音が響き、それはベンチの後ろでピタリと止まる。一真の空は赤く染まり、見上げると優が飴を揺らしていた。


「昨日はどうも。大変、お世話になりました」

「元気そうだね」

「おかげさまで」

「約束していないのに、来たのか?」

「約束してないから、来たの」


 優は正面に立つと、笑いながらカサをくるくるまわした。


「今日は、お礼を言いに来たの。明日から公園に来れないから」

「お菓子も食べおさめだな」

「そだね~ 正直、電車代がちょっと厳しいの」


「電車代?」

「そう、電車代。バイトの残りで入社式に着るスーツを買うんだ~」


 優の言葉を聞いて、口に放り込んだ飴が止まった。入社準備のアイテムを並べ、「口紅もいるよね?」と言ったところで一真は腕をつかんだ。


「ちょっと待て、君の家は札幌だよな?」

「いや、札幌じゃない。音別おとべつだよ」

「おと?」

「音に別れと書いて、おとべつと読みます」

「そこはどこだ? 電車で何分かかる?」


滝川たきかわまで、二時間でしょう~ 乗り換えて、音別まで一時間かな。

バスで三十分かかるから~家まで四時間って感じ」


「四時間……

 毎日、四時間かけて、お菓子を運んでいたのか?」


「んだ」

「片道、四時間だよな……」

「んだ……」

「つまり、往復おうふく八時間か?」

「んだ、んだ」


 優の「んだ」で、偽善はお人好しの香りが強くなる。


「北海道は、でっかいどう~」

 の声に、一真は力なくベンチに沈んでいった。

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