10話  僕の負け

 この十日、晴れていたのは数日だった。しかも、今年一番の冷え込みと、気象予報士が連日更新している。さらに、旭川あさひかわ方面の電車が二時間遅れのニュースを、一真は何度も見ていた。


「風邪もひくよな――」


「次に来るのは、入社式の三月二十日だよ。また、お菓子をあげるから、三時に公園で会おうね」


「三月二十日」


「いま、『明日の約束』をしたよ。それまで、ちゃんと生きていなきゃだめ。分かった?」


 北の街に咲く花は、カサをくるくるまわしながら笑っていた。

 その姿は春よりも色鮮やかに咲きほこり、心を揺らす。


 僕の負けだ―― 


 その言葉は、心の中で言うはずだった。


 首をかしげた優の仕草で、口を伝ったことに一真は気がつく。

 飴一つで泣くつもりはないが、気を許すと目が潤んだ。


「今日も寒いね」と言われ、「寒いね」と返す。そんな共感能力が自分にあることを、札幌に来て初めて知る。目尻めじりに熱い物を感じても、一枚の絵に見惚れるように、優の姿を眺めていた。


「留さん、今日は三時台の電車に乗るの。そろそろ帰るね」

「駅まで送るよ」

「音別駅? そんな、悪いよ~」

「札幌駅だ」


 渋い顔を見せると、優が笑う。鼻をすすり、首をまわしてから、見惚れていた自分を正気に戻した。


「僕は、四時間もつき合えない」

「一緒に帰りたかったのにな~」

「一緒に帰ったら、戻ってこられないだろう」


「じゃあ、駅まで一緒に歩こう」

「タクシーという選択肢はないのか?」

「ない」


 先に歩き出した優の背中を眺め、一真はシャツのボタンを一つ閉める。


 空から紙吹雪を散らしたように雪が降りはじめ、手のひらで受け止めるとあっという間に溶けた。


「それは、牡丹雪ぼたんゆきだよ。きれいだね。冷えてきたから急ごう、留さん」


「留さんは止めてくれないか、僕は北澤一真だ」

「北澤一真、なんか普通だね」


失敬しっけいな」

「呼びやすいから、留さんがいい」

「聞きづらいから、北澤さんにして」

「分かったよ。留さん」


 にやっと笑う顔を見て、数歩遅れていた距離をちぢめた。


「――前から思っていたが、君の言葉のキャッチボールは少し変だ」

速球そっきゅうだから、取れないでしょう?」

暴投ぼうとうだから、取れないんだ!」


 一真の声に、優が耳を押さえた。


「耳がキーンて言った」

「キーンて言うように言ったんだ。もう一度言うぞ、僕は北澤一真だ」

「しつこい、留さん」

「これが最後だ。僕は北澤……」

「留さん」


 カサを盾に笑う優に、一真は渋い表情を返す。

 公園近くは人がまばらだが、駅前通りは通行人が多い。


 優が、『留さん』と呼ぶたび、人は一真にふり返り、その都度つど、自分の名を連呼する。駅に着くまで、名前をふせたい一真が、一番札幌市民に名乗っていた。


        ◇



「君のせいで、名前が売れてしまう」

「東京でも有名なの? 留さんって、何屋さん?」

「――詐欺師さぎしだよ」


 改札前のベンチに腰を下ろし、一真はペットボトルのキャップをまわした。


「僕の話はいい。それより『音別』って、どんな街だ?」

「音別市は、人口三十万人かな」

「そんなにいるのか?」

「道内屈指の桜の名所があり、支笏湖に次ぐ透明度の高い湖が有名だよ」

「へ~え」


「駅前は商業施設が並び、東京で言うなら渋谷しぶやかな。

 家の近くに遊園地があって、そこの観覧車は道内一大きいの」


「道内一か、すごいな……」

 一真は、うなずきながらお茶を飲んだ。


「観光が盛んで、活気かっきにみちた若者の街。それが、音別だよ」

「大きな街だ。知らなかったな」


 基本、一真は簡単に人を信じない。この日は体調が悪かった。


「すごいな」

 を繰り返す後ろで、笑いをこらえる優に、まったく気がつかなかった。



『十五時五十分発、滝川行き 普通』


 優が乗る車両は、ところどころ赤くさびついた三両編成だった。乗り込む前に窓から座席を確認して、「いつもこんな感じ」と座ることをあきらめた。


「留さん、三月二十日だよ。八丁目のベンチに三時、ちゃんと覚えた?」

「覚えたよ」


「春になったら、芝でゴロゴロ遊ぼうね。公園でとうきびも食べよう。

一緒に街を歩くよ」


「ん……」

「もう、雪に沈まないでね。気をつけて帰るんだよ」

「君もね。君も……」


 一真が言い切る前にドアが閉まる。発車のベルに急かされ車両が動き出すと、手をふる姿が離れていく。これから四時間、電車は北を目指す。


 直線で加速をつけ、踏切を越えると右にカーブを描く。雪煙を上げながら、優を乗せた電車は見えなくなった。



「行っちゃった……」


 一真の声と同時に、電光でんこう掲示板は次に停まる特急電車の時刻に変わった。

 風がおさまると、ホームは真っ白なレースのカーテンを掛けたようで、もんもんと降る雪の隙間すきまから、向かい側で二列に並んだ人が見える。


 ポケットの中に手を入れると、長寿飴が指先に触れ、一真の寂しがる心を、なだめていた。

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