11話 春を待つ
チェックインの混雑も落ち着いたころ、『ホテルサンピアーザ札幌』には、ロビーを走る一真の姿があった。
スタッフ
「トラブルでも、ございましたか?」
カウンターで、宿泊カードをそろえながら渡部が言った。
「頼みがある。もう一度、ここに泊めてもらいたい。部屋はどこでもいいから、取りあえず三月二十日まで」
「三月二十日……春祭りには、お早いですね」
渡部は、宿泊カードを元の場所に戻す。
「タオルをお使いになりますか?」
と聞かれ、一真は顔を上げる。カウンターを汚したのは、額から落ちた汗だった。
「お話の続きは、スカイラウンジのほうが、よろしいかと……」
渡部は、総支配人のネームを外す。
ブレザーは同じだが、
「そうでしたか、三月二十日は入社式でございましたか。札幌の街が騒がしくなりますね」
「先が思いやられるよ」
「
「僕も公園で見たときは、驚いたよ」
一真はジンベースのカクテルで
「渡部さん、少し話を聞いてもらえる?」
「ええ、いくらでもおつき合いしますよ」
「産みの母親は五歳のとき、金で僕を手放した。初めて見る父親は車の中で、『お前を捨てた女を忘れるな』って言った。人を憎む感情のないガキに、母親を憎めと教えたんだ」
一真は、一気にカクテルを飲みほした。
「本当は、あいつが母さんを捨てた。僕に対してだって愛情があったわけじゃない。あと
「存じておりますよ」
「北澤グループじゃ、僕は有名人だね。じゃあ、事件の話も?」
「事故と聞いております」
「理由はあるけど、あれは事故じゃない。すべて僕のせいだ」
ジンが差し出されると、一真は上から眺める。
グラスの中で氷がカランと音を立てた。
「生き恥をさらすのがいやで、僕はこの街に逃げた。覚悟はできていたのに、三つ編みのせいで歯車が狂った」
「狂ったのではありません。歯車は元に戻ろうと、きしんでおります」
「元に戻る……」
「ええ、時代とはまわる物です。季節もまわりますね。順番で言うなら冬の次は春でございましょうか。いつまでも、冬をめぐる季節はありません。一真様の冬もいずれ終わりますよ」
渡部はグラスを片手に、一真の横に腰を下ろした。
「冬の厳しさを知った一真様は、春を知る権利がございます。そう言う方に、この街は優しい姿を見せてくれます」
「僕にでも?」
「街が決めることです。ただ、一真様がここにいると言うことは、春を見せる準備をはじめたのでしょう」
「札幌の春か……」
「次の季節を待ってはいかがですか? 花村様は、あなたと過ごす春を楽しみにしています。過ちを犯さない人間はおりません。その先をどう生きるか、それが一番大切なことです」
渡部の静かな口調に、一真の
「お荷物は、元のお部屋に」
と言われ涙が落ちる。
丸くかがんだ一真の背中を撫でながら、渡部は微笑んだ。
「心の整理がつくまで、お好きにどうぞ。このホテルは、あなたのホームです」
―――― ◇ ――――
僕はこの夜、いつまでも顔を上げることができなかった。
渡部さんはとなりに座り、共に酒を飲みながら長い夜を越えてくれた。
不安定な気候を繰り返し、北の街は徐々に春を迎える。希望を胸に、あの娘は何を夢見ているのだろう。
『明日の約束』
その響きは、命を繋ぐ糸だった。それは、頼りなくも色鮮やかに明日へ導いてくれる。
雪解けが進むころ、遠い街からあの娘が会いに来る。
スポーツバックに未来を詰め込み、甘いお菓子を持って僕に会いに来る。
「明日の約束をしようね」
僕は、その声が聞きたくて、あの娘が暮らす札幌で春を待つことに決めた。
次回 第二章 『再会の街』
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