第3章 君の恋

1話  音別東高校野球部

 風は五月、公園の桜は満開だった。


 『明日の約束』は『気晴らし』と名を改め、一真は午後三時を過ぎたころ公園にやって来る。


 噴水に目を細めているとハイヒールの音が歩道に響く。それは、五歩に一度つまずき、妙なリズムが一真の耳になじんでいた。



「こんにちは、お嬢さん。ご機嫌いかが?」

「話かけないで」

「あれ? スカートのファスナーが開いているよ」


 優がふり返るタイミングで、一真は文庫本を開く。

 今日は嘘だが、二日前は本当の話だ。さらに、昨日はスカートの裾から糸が舞う。ほつれた糸を処理したにもかかわらず、お礼を言わずに優は立ち去った。



「社会人一年生? 『ありがとう』は、だいじだよ」

「いつも、よけいな一言を『ありがとう』北澤さん」

「口紅が、はみ出しているよ。変な顔」


 一真の言葉に、優は口元を隠す。

 気晴らしは、別名いやがらせとも言う。

『素直さ』の方向性は、いまだ修正できないままだった。




 この日、一真がホテルに戻るとエントランスに一台のマイクロバスが横づけされていた。坂を上る途中ですれ違ったバスには、ハンドルを握る金歯の運転手が見える。

一真が回転扉を抜けると、そこには十二人の坊主頭がロビーを走りまわっていた。


「やっぱり札幌高校さっぽろこうこうはつえ~な。文也ふみやのバカがエラーするからよ~」


「僕だけじゃない、ぴょん。かんちゃんもトンネルしたべさ~」

「コールドだぜ、五回コールド。もう、心も『こーるど~』なんちゃって」


 後頭部に手をえた仕草に一真は確信した。


 野球部のユニフォームには、『音別東高校おとべつひがしこうこう』の文字。スポーツバックを斜めにかけ、赤い頬が妙に懐かしかった。



「野球部顧問の松原まつばら様と、おっしゃいましたね?」


 渡部は、フロントで一度メガネを直して言った。


「大変、言いにくいお話ですが、花村様は当ホテルの社員ではありません」

「え? 春に入社した花村ですよ」


「こちらは、『サンプラザ札幌ホテル』ではなく、『ホテルサンピアーザ札幌』でございます。つまり、宿泊先のお間違えと言うお話で……」


 渡部の説明を聞いて、はしゃいでいた坊主頭はロビーに倒れ込む。


 午前中に試合をこなし、午後の合同練習は三時間におよぶ。疲れた体は、ホテルの夕食だけが支えだった。


「ご安心下さい。その社員に迎えに来ていただきましょう」

「花村にですか?」


「はい。マイクロバスも手配いたしましょう。

 お飲み物をご用意いたしますので、あちらのラウンジでお休み下さい」


 渡部の言葉に坊主頭は息を吹き返し、一真のまわりに腰を下ろす。


 通常、一真がラウンジの席に座ると、飲み物とプレートに乗ったケーキが届く。いつもなら、そのプレートから二つ選び午後のお茶を楽しむ。しかし、今日は坊主頭の視線と腹の悲鳴が気になり、選びにくい。


「君たちもよかったら……」


 と、一真が言いかけてすぐ、十二人の坊主頭が一斉にうなずく。

 涙目の文也の顔を見て、一真は追加のプレートを頼んだ。





「そこの野球部、よくのんきにくつろげるよね?」

 優の迎えは、予想以上に早かった。


「僕がねだったんじゃない、ぴょん。北澤さんが頼んでくれたの」


 首をすぼめたのは、文也だった。口のまわりにはチョコレートケーキの名残がある。それは顧問の松原をふくむ全員についていた。


「あの、ご請求金額は、おいくらでしょうか」

「僕に恥をかかせる気か?」

「たかるつもりはないと言う意味です」


「たかられたわけじゃない。君が騒ぐと球児達の立場が悪くなる。

 ここは素直に、『ごちそうさま』でいいんじゃないの?」


 一真がコーヒーを口に運ぶと、球児達からのごちそうさまの声が響く。優一人が何も言わずフロントに向かった。




「渡部総支配人、ご無沙汰しております」

「こちらこそ……」


 深く頭を下げられ渡部も一礼を返す。

 スキップで登場しない姿は、初めてだった。


「サンプラザ宿泊予定のお客様十三名、当方の手違いで大変ご迷惑をおかけ致しました。申しわけございません」


「ご丁寧にどうも……」


「明後日、社長の風間が改めて、お詫びにまいります。

 今日のところはお客様もお疲れのご様子、

 申しわけありませんが、これで失礼させていただきます」


「――承知致しました。

 お気になさらずと、風間社長にお伝え下さい」


「はい。ありがとうございます」


 毅然きぜんとふる舞う姿に、息をのんだのは渡部だけではなかった。


 社会へ巣立った背中に松原は目を細め、職場デビューの道をつけた一真が見守る。幼い表情は影を潜め、折り目正しい制服姿は美しかった。

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