6話  いやな予感 3 豊平川

「危ない。あの娘、危ないよ!」


 一真が欄干に身を乗り出すと、川沿かわぞいの木に引っかかるチケットが見える。しなる枝を支えに優が手を伸ばしたのは、雪どけで水位が増した川の真上だった。


 一真が走り出すと、その背中を劇団員も追う。

 フェンスを飛び越え一気に土手を下り、今にも折れそうな木を目指した。


 優が乗っているのは二股にわかれた枝で、チケットをつかみ

「とれた、ぴょん」

 と言った瞬間、亀裂が入る。


 一真の手が腕をつかんだが、バランスを崩した優に引きずられ、あっという間に二人は川にのみ込まれた。


 川の流れは速く中央の深みへと一真を誘う。もがく優を腕に抱き、雪でいびつに曲がった枝をつかんでは、また流される。


 手の痛みは水温ですでに感覚がない。水流のなかで見えたのは、最後の木だ。腕をからめ片手で優を引っ張り上げた。


「はい上がれ! その木を離すなよ」


 咳き込む優の背中を押し、岸へ追いやる。手のしびれは限界で静かに優から離れていく。木にからめていた腕も力をなくした。


「留さん、だめ――――!」


「大丈夫だ! 俺がつかんでいる」


 宇野がすべり込むと、一真のジャケットを引っ張り上げる。

 川に飛び込んできた団員たちの手を借り、一真はようやく爪先を岸に上げることができた。




「死ぬかと思った……」


 草むらに大の字になり一真が呟く。髪の毛をふると枯れ葉の匂いが鼻につく。あの冬の日より、死を強く感じた瞬間だった。


 小指から順番にたたみ、手を広げるとまだ指先が震えている。優をつかんだ手が、最後まで力尽きなかったことを、一真は感謝していた。


「留さん……無事だったの」


 のぞき込む優の顔は、目に涙を溜めていた。


「――僕は、大丈夫だよ」


「見てよ、留さん。チケット三枚、無事だったの~」


 チケットか……

 

 今、感謝をした拳で、感謝をした自分を殴りたい感情で、震えは大きくなった。


 優の言葉に疲れが一気に押し寄せ、体にまとわりついた草を投げつける。

 最後まで離さなかったチケットを高く上げ、優は自慢気に笑うが、拍手をしたのは淳一だけで、あとの劇団員は、みんな一真に同情的だった。


「このガキ、すげぇ~な」


 濡れた袖をまくりながら、宇野が笑った。


「三枚しかとれなかったの。ごめんね」


「おお、こっちこそ悪かったな。そのチケットはお前にやるよ。

 気が向いたら俺達の芝居を見に来い」


「芝居? 絶対に行く。ありがとう」


 ふやけたチケットを喜ぶ姿に、一真は頭をかく。長財布の水を切ると、湿った札を五枚抜き取り、宇野に差し出した。


「乾かして使ってよ。幕が上がらないと、この娘が見に行っても無駄足でしょう?

 これで君達との貸し借りなしだ」


「あんた、いい奴だな」

「誤解だよ」

「照れるなって、留さん」

「それも誤解だ。僕は北澤……」


 名乗ったところで、万歳をあおる優のせいで誰も聞いていない。


 この日、『人がいなくて、静かな河川敷』は、留さんいい人コールが響き渡る。川の匂いが鼻につき、救った甲斐かいのない女の笑顔も鼻についた。



            ◇



 十日後、札幌中央区にある劇場『BLOCH』に渡部も誘い、三人で舞台を見る運びとなった。


 早番の優は、はじまってすぐ舟をこぐ。中盤、目頭めがしらを押さえる渡部の横で、「ラ~メン」と、寝言を漏らし、宇野の一番の見せ場でいびきをかきはじめた。


「てめぇ~ 最前列で、寝てんじゃね――!」

「先輩、台詞が違うって~」

「起きろ、くそガキこの野郎~!」


 怒りに震える宇野は舞台そっちのけだが、仲間の羽交はがい絞めで客は盛り上がる。


 渡部はまわりに頭を下げ、一真が鼻をつまむ。見たいと言った本人は夢の世界で、劇団をたたえる拍手が響いても、最後まで帰って来なかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る