4話  支笏湖の香り  

 翌日、一真が目を覚ましたのは、『ホテルサンピアーザ札幌』の最上階だった。


 広さ百四十平米のプレミアムスィートは、オーナーである叔父の北澤次郎きたざわじろうが用意した部屋だ。


 キングサイズのベッドにジェットバス、バーカウンターまでついていた。


《一真が気に入ったのなら、好きなだけいてもいいぞ》

「そんなつもりはない」


《告訴は取り下げられた。

 記者がうろついているが、札幌にいれば見つからないだろう》


「そう……」


《お前は少し走りすぎた。わたしも三月に札幌へ行く。

 それまでゆっくりしていろ。分かったな》




 通話を終えると、一真は携帯電話をベッドに放り投げた。


 子供のいない叔父夫婦にとって、一真は特別な存在だった。

 その愛情が哀れみだとしても、利用して生きてきた。


 所詮、愛人の子供だ。


 名を汚す行為をすれば、縁を切るのにためらいはない。待ちかねたように牙をむく親戚の中で、次郎だけが手を差し伸べてくれた。


 幼いころから、「お前は、いい子だ」と、なんの根拠こんきょもなく頭をでる。不思議と、その手だけは信じることができた。



「あの人を裏切るのか……」


 ぽつりと呟き、一真の視線はつけっぱなしのテレビに流れた。


 レポーターが『温泉特集~』と声を張りあげ、その明るさと裏腹な湖が映し出される。それは、次郎宅に身を寄せていたときにも見た湖で、『支笏湖しこつこ』という名前だった。


 山々に囲まれた湖は、命を捨てに来た人間を食らい、決して魂を浄化じょうかさせないと聞く。


 手招くように揺れる湖面に一真の視線は離れない。そこは、叔父の勧めを従順じゅうじゅんに受けた心の、最終目的地だった。



          ◇



「ねえねえ、昨日の夕方に来たって、噂のおいっ子」

「先輩、顔を見たんですか?」


 新米客室係の声が華やぐ。


「見たわ……ちょっと暗そう」

「顔は?」

「きれいな顔立ちよ。でも、冷たそうな感じ」

「いいな~」


 客室係の声は、五一五号室あたりに響いていた。

 二人同時にシーツを広げ、タイミングをはかり、ベッドを包み込んだ。


「何が『いいな』よ。

 あんな事件を起こして、除名じょめいも当然」


「相手の人、指が八本だめになったって、本当ですか?」


「本当よ。才能ねたんで指をつぶしたって、自分が上手くなるわけないのにね~

 ついたあだ名が、『闇のピアニスト』じゃあ、人生真っ暗って感じ……」


 次のシーツのタイミングを外したのは、ベテランの女だった。

 ドアに立つ、渡部総支配人の姿に固まっていた。




「あなた達は、ひそひそ話と言う意味を、ご存じですか?」


 ドアノブを白いハンカチで拭きながら、渡部が二人に問う。


「ひそひそ話とは、ひそひそ話すから、ひそひそ話と言います。

 廊下まで聞こえる以上、そのひそひそは、もはや、ひそひそではありません」


「すごい。噛まなかった」


「いいですか、噂が先行せんこうするような目では、おもてなしをすることなどできません。言葉ではなく、人を感じる力を学びなさい!」



 客室係は、渡部の言葉を直立不動の姿勢で聞いていた。


 鬼の支配人と呼ばれる渡部がにらむと、大抵たいていのスタッフは震えあがる。北澤リゾートに身を置くこと二十年、『サンピアーザ・ニセコ』から異例の抜擢ばってきだった。



 渡部はドアを閉めると、何ごともなかったようにエレベーターホールに向かう。

 ホテル内をまわり、噂の火種ひだねを消して歩くのが、午後一番の仕事になった。




 一真がロビーに顔を出したのは一時間後、渡部をふくめスタッフの誰もが声を聞いていない。カウンターに並んだ黄色い包み紙を見て、「飴?」と初めて口を開いた。


「よろしかったらどうぞ。

 なにやら、長生きができる飴と聞いております」


 渡部に飴を差し出され、一真は首をふる。

 ポケットには、同じ色の飴が一つ転がっていた。


「昨日、面接場所を間違えた高校生がいらっしゃいまして、

 あのような天気で心配いたしましたが、無事に決まって何よりです。

 先ほど、あいさつに来られました」


「採用になった?」


「はい。面接先の社長の人柄ひとがらは、存じております。

 電話で事情を説明したら、大笑いをしていましたね」


「あなたが電話を入れた?」


「三十分遅れのようです。

 連絡をしたときには着いておりませんでした」


「世話になった、銀縁メガネ……」

「はい?」


 渡部が聞き返しても、一真は素知そしらぬ顔で、カウンターにカードキーを置いた。


「お出かけでございますか?」

「ちょっとね。札幌観光」


「晴れておりますが、今日も真冬日の気温です。

 お気をつけて」



 一真は軽くうなずき、フロントをあとにする。

 エントランスの前に並ぶタクシーに乗り込むと、「支笏湖」と運転手に告げた。


 街は渡部の言葉通り、日差しが強い分、気温が低かった。


 昨日、降った雪のせいか、白一色の世界がタクシーの窓を通り過ぎてゆく。

 やがて、地下鉄十一丁目駅を超えると、右手に横たわっていたベンチが見える。

 常緑樹じょうりょくじゅの隙間で揺れていたのは、赤いカサだった。


 どうする、北澤―― 

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