5話  偽善の香り

 どうする、北澤―― 


 なんの義理もない一方的な約束だと、一真は横を向く。しかし、約束は午後三時のはずだが、シフトレバー横の時計は二時を過ぎたばかりで、通行人の息は白く、東の空に厚い雪雲が見えた。


 一真は一つ息を吐くと、駅前通りを左折してすぐタクシーを止めた。


 テレビ塔を左に眺め、約束の八丁目を目指す。やがて、遠目に赤い点が見えてくると、咲いているのは赤いカサに、赤い長靴、気がついたのか花は跳ねながら手をふっていた。



「留さん聞いてよ~ すぐに、内定をもらったの」

「ちゃんと、面接をしていない証拠だ」


 一真はベンチに腰を下ろした。


「すごいでしょう~春には社会人だよ。

 七割実力だけど、残りは留さんのおかげだね」



 十割、渡部総支配人だ―― と、言いたげな視線を一真は送る。


「留さんも、早く仕事が見つかるといいね」

「その話だが、僕はホームレスじゃ……」

「言いたくないことは、言わなくてもいいよ」

「言いたいことを、言っているんだ」


「過去なんて、誰にでもあるよ。

 やりたいことや、行きたい場所も、これからきっと見つかるよ」


「行きたい場所……」


 一真は、ベンチで腕を組んだ。


「あれ、行きたい場所があるの?」

「支笏湖……」

「シコシコ?」

「シコツコだ」

「だから、『シコツコ』って、言ったよ」

「いいや、『シコシコ』って、言っただろう?」


「シコツコでしょう?」

「違う。シコシコだ……ええ?」

「はぁ?」

「ちょっと待て、めまいがする」


 一真は額に手を当ててから、一度、深呼吸をする。

 最終目的地で、言葉遊びをした自分をいましめる時間が必要だった。


「君と話をしていると、調子が狂う」

「栄養不足かもね」


 スポーツバックから出てきたのは、みたらし団子三本パックで、

『受け取らないぞ!』

 の、パフォーマンスで拳を握る。しかし、ヒザの上は無防備で、団子と板チョコが『受け取っちまったぞ』と、困っていた。



「明日を生きるために、今日、食べる。

 めまいがしたら、行きたい場所にも行けないよ」


 一真が顔を上げると、そこには愛情に恵まれた人間の姿があった。


 人懐ひとなつっこく笑う顔に、温かな家庭の暮らしが見える。さらに、明るい未来が開けた喜びで、弾む声が耳ざわりだった。



「明日は、何がいいかな~

 やっぱり、腹持ちがいい豆大福」


「明日も、来るのか……」

「明後日は、きび団子にしようね」


 風に乗ってただよう香りが、一真をいらだたせる。

 腹の底から、かっと燃えるようないらだちだ。

 づけを止めたときから、飢える不幸に気がつかない。


 家族と笑い合う日々で約束は忘れ、人の寿命を数日延ばした気持ちよさだけが記憶に残る。そんな偽善の匂いだった。


「そろそろ帰るね。また明日、三時にベンチだよ」


 手をふる姿が消えると、一真は板チョコをひねりつぶした。


 旅立ちは偽善に飽きた日に絞り、寿命の長さは高校生次第と決める。

 命を奪う十字架を、知らぬうちに背負う姿を想像して一真は笑う。


 いつまで続くか、楽しみだ―― 


 一真はチョコを放り投げ、あとは約束を一つ忘れてくれと、願いを込めた。



       ◇



 その夜、一真はスカイラウンジで酒を飲む。


 ジンを一本開けたころで女を口説くどき落とし、部屋に連れ込んだとたん、ベッドルームに引きずり込んだ。


 拒む口は、鼻をつまんでこじ開け、悲鳴を聞く前に唇でふさぐ。

 女の肌にみつき、自分も噛まれ、黒い血でシーツを汚したい。

 そんな感情で女を抱く。


 抵抗する体を、従順に変える方法など、いくらでも思いつく。モラルの糸は、女のあえぎ声ですぐに切れた。


 札幌に来て三日、一番話をしたのは三つ編みの高校生だ。


 最後に見るのが鼻をたらした女では、この世に未練みれんが残る。

 口説いた理由は、それだけだった。



 しかし、その願いは、午後三時の「留さ~ん」の声ではかなく消える。


 妄想もうそうだが黒く汚れた血を、昨夜に吐き出したばかりだ。


 貧血を起こしそうなめまいの原因は、赤い花が上下に跳ねる仕草で、ふらついた足先に雪の塊があたる。一真が踏んだのは、ベンチ右横に並ぶクオリティーの低い雪だるまだった。


「どうして、雪だるまを作る?」

「わたしがいないとき、留さんが、さびしくないように作るの」

「ああ、『それは、うれしいね』って、僕が言うと思うか?」


「明日は、左に作るの」

「――それは、悲しいね」


 今夜も女を、狩らねばならない――

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