第54話 通り過ぎた駅


 そんなふうに思い出してみても、私は当時のすべてをハッキリ覚えているわけじゃない。脳が記憶できる容量、情報量に一定の限界があるとすれば、随意的にでも不随意的にでも私自身が無駄と判断した一部分を、悩むことなく消してしまったのだ。


 保存状態が良いままで引き出される過去の記憶が、キレイに過去として成立しているのは、いまの私にとってはその時間がすでに途切れているからなのかもしれない。


 だから流れ続けている時間に関しては、いまの姿かたちを認識していればその都度記憶を出入力する必要はない。だが、そこに在り続ける像や形は、たとえ過去の中に当時の面影を求めてみても、そのことごとくが善くも悪くも現在の像や形で映し出されてしまう。



 私が小学生だった頃に家族で住んでいたアパートの一室は、玄関を入ってすぐ右側に四畳半の私の部屋があった。左側にはトイレと風呂。短い廊下を数歩進んで、すりガラスがはめ込まれた白色のドアを開けるとダイニングキッチンになっていて、その奥には左右に六畳間がひとつずつあった。


 なんていう間取りはハッキリと覚えていても、釣りに出かけて滝から落ちて、右足と肋骨を折って帰ってきた父に向けて玄関で「仕事はどうするの?」と辛辣な言葉を投げた母の姿は、どう思い出そうとしてもいまの母の姿になる。


 そして右足にギプスをつけて和室の壁にもたれて座り、小学校から帰ってきた私に「おかえり」と言った父の姿も、小瓶に入れるはずだった大量のコショウをテーブルにこぼした挙げ句、古典的なギャグのようにくしゃみを敢行して全部吹き飛ばしたいまの父の姿でしか見えてこない。



 言葉や仕草はその当時のままで繰り返し呼び戻せたとしても、同じ一幕をこの先十年後、十五年後に思い出すときに像として在るのは、いま私が見ている「当時」よりもさらに老いた父や母の姿なのだろう。



 私の記憶の始まりは三歳か四歳の冬に、アパートの外廊下と駐輪場を隔てる低いブロック塀の上に数センチ積もった雪を、毛糸の手袋をはめた自分の右手がゆっくりと払い落としている映像だ。


 もしそれ以前の時間の中に記憶していた像があったとしても、新しい時間の中に生まれた新しい記憶を取り込むために、やっぱり私はためらいもなく消してしまったはずだ。


 いくら自分の行動に責任を持つとか、持てと言われてみても、いまの年齢になってみても私の思い出を誰かに頼ることは結構ある。まあ、それもうろ覚えな部分の穴埋めをしてもらうための、私の記憶の一部なのだ。




 前回の、


「思い出が残酷なのは、相手をその年齢で繋ぎ止め続けている。相手をその年齢のままで生かし続けてしまっていることだ」


 なんて部分を考えていたときに、「よだれたキャンディバー」で書いた上記の内容をふと思い出していた。(おそらく「よだれた――」は改めて公開することも無いだろうから、切り取って吐き出すことにした)



 思い出や記憶が残ることと消えること、果たしてどっちがいいのかという話じゃない。人はどう足掻いても常に時間と同一方向に進むことしかできないのだから、時間を主としたある種の仕組みに従うしかない。



 正直私には「いい思い出」というのがあまりない。


 それは単純に人生経験が乏しいからなのだけど、でもそうやって「いい思い出がない」と言い切れてしまういまの私は、過去の私よりも世界に面白味を実感しているということだ。(と、信じたい)



「いや、未来を変えようというよりは、いまの私が未来の私によって『変えるべき過去』として扱われないように最善の方法を実践しなければいけないのだ」


 なんとなく、つまりはそういうことだと思ったというだけの話である。




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