第52話 審美眼の代謝


『だからといって体の使いかた、特に膝を曲げる角度が重要だとかそういう答えにしてしまうと、信じる信じない以前に論として取り扱われない可能性が出てしまう。私はゆっくりと沈んで膝の角度をなんとか見極めようとしている、ある種の恥ずかしい動きを「もうやめろ」と言って制した。


 つまり、タイムトラベルなんてしなくても、そんなことを考えなくても、私はこうして過去の私に直接会って話をして、未来を変えることができている。


 私は科学者じゃなければ、サイエンスフィクションに傾倒しているわけでもない。ともすれば、そうじゃないからこそ通じたのかもしれない。というのは、きっと私だけの気付きではないはずだ。


 とにかく、いまは未来を変えることだけを考えよう。そのためにはまた過去の私に会って話をしなければいけない。いや、未来を変えようというよりは、いまの私が未来の私によって「変えるべき過去」として扱われないように最善の方法を実践しなければいけないのだ。』




 唐突にこういうものを提示されて、あなたは「おい、どうした沢田?」とか「この文章はどういう意味?」となっているかもしれない。


 でもその「?」は正解だ。ここに提示した文章には、提示された以上の意味も答えもない。



 これは私が以前作った文章の一部分なのだけど、こういうものがつまりは前回書いた、友人が私の作品に関して言った「意味がわからない」の一端だ。

(といっても、これは「よだれたキャンディバー」ではないし、「よだれた――」は現在絶賛非公開中である)


 敢えてもう一度言わせてもらうが、この文章にこれ以上の意味はない。吐き出された言葉の連なりがそのままの意味として表現されているだけのものなのであります。



 でも、ここで私が上記の文章に関して、「実は〇〇の意味合いが含まれている」とか「〇〇に対する批判が含まれている」なんて、文章全体に一定の方向に偏った命を吹き込めば、ただの文字の連なりはそう生きてしまうし、生かされてしまう。


 少々だまし絵的な手法というか、それこそ「こじつけ」ができてしまう。



 たとえば、異性がとても好意的に接してくれたとする。


 相手は単純に人間的、社会的に「助けた」だけだったとしても、もしその異性に若干なりとも恋愛感情を抱いていれば、もしくは自分に優しくしてくれた異性というだけで「あれ、もしかして向こうも自分のことが?」と、あらゆる部分を端折って結論付けてしまう勘違いを起こす人もいる。


 というのは、性別問わずストーカー的な「極度に偏向、歪曲された主体的な心理」の典型が完成するわかりやすい例だと思うのだが、特にこういう人は外側から「間違ってるよ」と指摘しても、自らの正しさの中でしか生きていないから間違いに気付けない。



 無論、文章もそうだ。いくら書き手がストレートに「これはAである」と意図して書いても、「ということはBなんだな」と解釈する読み手はいる。そんでもって先に進むとAはAでしかないから、「Bじゃないのかよ!」と身勝手に苛立って、書き手に意見する人も現れる。



 なにをどうやって、どの角度から丁寧に語ってみても、曲解する人は必ず現れる。


 読めない人は、そもそも読もうとしていない。


 説明しなきゃわからない人は、もとより説明されるのを嫌う。等々…



 そういうことが常に起こり得ると理解したうえで、書き手は言葉を自由に選択しなきゃいけない。そうするべきだといまの私は思っている。





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