第51話 もてなす直球


 諸事柄、作品の結果、結末の善し悪しを考えられるということは、すでに経てきたプロセスも楽しんでいた。というのは、こじつけにしかならないのだろうか。



 デイヴィッド・リンチ監督は映画「マルホランド・ドライブ」だったかのインタビューで「つまり、あれ(内容)はどういうことだったのですか?」と問われて、


「わからないをわからないまま、わからないって楽しめってことだよ。そういうのわかんねぇかな?」


 みたいなことを返した。(そこまで強く言ってない…)



 前記の疑問は多分「こじつけにしかならない」が正解だ。


 というか、おおよそ人は結果、結末が「自分の感性として」善いか悪いかで、プロセスの善し悪しも包括的に考えてしまうのかもしれない。


 だからこそ「マルホランド・ドライブ」は「意味がわからない」という感想が多かったように思う。(リンチ監督の作品は、大概そう言われてしまうのか…)



 いや、「意味がわからない」は一方では正しいはず。でもその「わからなさ」を面白いと思ったか否かが全体的な評価に繋がるというか、繋がってしまう。


「じゃあ結果、結末を善く(簡単に)すれば――」という考え方は、前回の「ラスト1分の衝撃」なわけだから、これ以上は何も言わない。



 面白い映画監督と比較しているみたいになってしまうから、この先の内容は敢えて「底辺の話」として捉えてほしいのだけど、私がこの場ではじめて投稿した「よだれたキャンディバー」という作品は、友人から「意味がわからない」と言われた。


 でもそれはリンチ監督が指摘されたそれではなく、単に「何も起こらないことがわからない」というニュアンスだった。



 友人は知り合いにも「よだれた――」を読ませたようで、しかしその知り合いも内容とはまるでかけ離れた「なにも無いところに在る何か」を考察していたらしい。


 私はこの種子すら無いところに花を咲かせようとしているような、「考察」という行為が本当に嫌いだ。



 この二人はお互いにたくさん本を読んでいる(古典もたくさん読んでいる)から小説には精通していると豪語していたわけだが、その「考察」という行為も含めて、一体どういうつもりなのか専門家然とした読みかたをしていた。


 そういうのはつまらないし、私はその出来事から「本をたくさん読んでいる」がある種のステータスだと思っている人を、それまで以上に信用しなくなった。



 そういえばいつだったか、ここに吐き出した内容を読んでくれた人が「展開がなくてイラっとする」みたいなありがた~いコメント(苦笑)を残してくれた。


 正直なところ、根本的にこの場に立ち寄ってくれる人の数が少ないから、コメントをいただくなんてことはもっと少ない。だからいただいたモノにはありがたく言葉を返したいのだが、そのコメントを見たとき、私は、


「だってこれ、随筆だからなぁ…」


 と、モニターを見ながら腕を組んで唸ることしかできなかった。

(ホントに随筆なのかどうかも怪しいが…)



 なんだか全体的に愚痴っぽくなってきたからそろそろやめることにするが、プロセスを楽しむというのは、楽しいから意識するのではなく、常にあるからこそ楽しいか否かを判断できるある種の柔軟性だ。劇的な場面をそれとして楽しめるのも、全てが劇的じゃないからだ。



 生きているのがつまらないという人がいる。死にたいという人がいる。


 きっとそういう人たちは、「私」という流動的な時間の中で起きているはずの「何か」を能動的に見ようとしていないだけなのだろうし、あるいはなにも起きない部分に「何か」を求めて足掻いているだけなのだろう。





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