第50話 繰り返す数秒


 あちこちで「ネタバレを含みます」みたいな文言をよく見かける。世の中の大半の人はそれを許しちゃくれない。


 小説や映画、アニメやマンガの結末、スポーツの結果を不意に口にしたり、見終えた直後に諸SNSに投稿しただけで否定、批判する(される)人はたくさんいる。


 私自身はネタバレなんでどうでもいいと思っている。一体なぜ気にしないのか。大事なのはプロセスだと思っているからだ。



「ラスト1分の衝撃」みたいな映画の宣伝文句があるけど、ああいうのは「そこしか面白くない」と言ってしまっているようなものだし、そこだけを勧めるのであれば、そのシーンだけ見せりゃいいじゃんか、とさえ思う。



 つまり、ネタバレが嫌いな人は、犯人が見えない側の、


 火曜サスペンス劇場

「男くノ一忍法帖 もんまり芸者の苦い罠 湯けむりに消えたふんどしを追え!」


 は楽しめるとしても、犯人が見える側の「刑事コロンボ」は楽しめないということなのか。(前者は「土曜サスペンス劇場」でも可(黙ってろ…))



 ミステリーやサスペンスだって、一度見た(読んだ)ところで、面白ければ何度だって見たく(読みたく)なるし、私は「タワーリング・インフェルノ」や「カサンドラ・クロス」に関しては、何度見ても同じ場面で絶叫してしまうし、怖くなる。



 ダイエットで人気になるのは「〇ヵ月で20キロ痩せた」とかそういう文言。でもハッキリ言ってしまえば、


「あんたにゃそれだけ余計な脂肪がついてたってだけだよ」


 なのだが、数字の「大きさ」と当人の体型の「大きな」変化が、結果としての可視化されたインパクトになっている。



 たとえば、50キロの人が「20キロ痩せました」と笑顔で言っていたら、その場で救急車を呼ぶか、ある特定の意味で「病院に行け」の一言しか出てこない。そういうインパクトしか見出せない。


 ホントに大事なのは、「健康的に長く続けられるかどうか」であって、つまりはプロセス。そこんとこは創作だってきっと同じ。



 人間は――、あらゆる生物は生まれて死ぬ。


 でも「我々はいつか必ず死ぬんだよ」とネタバレを敢行しても誰も怒らない。もし私が口から大量の青汁を吐き出しながら「我々はいつか――」と言ってみても、あなたも「そりゃそうでしょ」とかなんとかあっさり返すはず。


 ということは、生物は生と死の間にあるその距離を楽しむようにできているのではないか。


 なんていうふうに考えると、「結果、結末」は距離の中で指標として示し得るだけの地点、要点でしかない、もっと何か大きなプロセスの一部でしかない。



 なんて言ってしまうと、私があなたにこういう場でその愛を語るためにチューちゃんの死があったのだとすれば、そんなプロセスなんて一生欲しくなかった。


 それに、当時の友人が最後まで隠し続けた映画「シックスセンス」の結末を、つい数年前に見た私の「あぁ…」としか言いようがなかったあの虚しさは、やっぱり「ネタバレなんてどうでもいい」という感覚の表れだった。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る