第47話 その夜の苦味


 近年、私はどうしても「もう三月になった」と言ってしまう。


 時間の体感、距離の話。



「記憶される年数の長さは年少者にはより長く、年長者にはより短く感じる」


「5歳の子どもにとっての1年は人生5年のうちの1年だから5分の1の長さ、50歳の人にとっての1年の長さは50分の1。だから5歳の子どもの10分の1の長さでしかない」


 というポール・ジャネの「ジャネーの法則」を、昔とある人が話して聞かせてくれたのを別の場で別の人に説明しようとした。


 でも、数字が苦手な私は分数の部分で引っかかって上手く説明できずに終わってしまったのだが、ウィキペディアで調べてみたらこんな簡単にあなたに伝えてしまえるという「科学(文明)」の進歩ってすごい。


 私は同世代の人たちと比べれば、人生経験なんて少ない(乏しい)のは明白なのだけど、それでも時間は等しく過ぎている現実が、果たして善いんだか悪いんだか…。



 最近、夕方から夜にかけてバイクが暴走(爆走)している音が聞こえてくる。先日はそのバイクが走り去るのを見かけた。それらしい改造をしたバイクに、それらしい格好で二人乗りしていた。平日の、もうすぐ正午になろうという時間帯だった。


 学校に行っていないし、仕事もしていないとかそういう状況なのかもしれない。

(お前も同じ時間にそこにいたという謎…)



 しかしたとえば、それを悪だと決めつけるのは社会の側だ。


 彼らと同年代だったころ、溜まったフラストレーションを放出する行動や場を見つけられずに、結局内に閉じこもることしかできなかった当時の私からしてみれば、そうしてしまえる行動力(衝動とか強行とか)もアリなんじゃないかなぁ、なんてほんのり思わないでもない。



 もちろん、学ばないこと、迷惑をかけたことで後になって彼らが背負うだろう一種の(人生の)負債について私は考えようとしていないし、そういう人間のことなんてどうでもいいと思っている。


 ああいう人たちは二、三十年経っても、いまの「楽しい」を思い出すことに時間を費やして「それが社会(世の中)だ」と指し示すのだろうし。(嫌な言いかた…)



 そこには少年期から悪事に手を染めてきた者だけに限らず、何もしてこなかった者――つまり私みたいな者も含まれているわけだけど、って、いろんな方向から嫌味を言いたいわけじゃなくて。(充分に言っているだろうが…)


 いまの私にとって足りないと思うくらいに短く感じる一日は、きっと十代の人たちにとっては、一日どころか夜明けすらもまだまだ長く遠い距離なんだろうなぁなんて考えると、当時の私のところに行って、


「それはまったく悩みでもなんでもないし、そもそも考えていることのことごとくがつまらないから、早く寝て明日を楽しめよ」


 と言いたくなるのである。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る