第46話 果実を目指せ
ロウソクの火が燃え尽きる直前に一度大きく燃える現象を表現する単語だか、ことわざがあったような気がするのだけど、忘れたとか思い出せないとかではなく、果たして本当にそんな言葉があったのかさえ曖昧だから、まあ気にしないことにする。
燃え尽きる直前のロウソクの火の像が頭の中にふと浮かんだのは、案の定というかなんというか、閉店することが決まった肉の万世に行列ができた画像を見たからだ。
と書いている(画像を見るだけに留まっている)時点で、私はまだ秋葉原に行く予定すら立てていないのだが、あんなふうに店の外に人があふれている光景を初めて見たから驚いた。
本音を言えば呆れのほうが強かった。
私は行列に並ぶのが苦手だ。なくなるとわかってから「思い出に」とか「記念に」と、その場に行って記録として残そうとかそういうのも苦手。
そのたった一度(「最後に」という感覚)で、自分の中になにが残るのかわからない。思い出や記念がどう思い出や記念として形作られているのかわからない。
「そりゃ人様の頭の中で構築されるもんなんだから、お前にわからなくて当然だろ」
そう言われてしまえばそうなのだが…。
よく「並んでまで食べたい〇〇」みたいなのがある。実際に毎日のように行列ができている店もある。そこまでして(という表現は失礼なのかもしれないが)食べたいという一種の欲求、そして食べることは達成感だったりするのだろうか。
と、ここまで書いてきて、(その妙に冷めた視線が)結局のところ私は肉の万世の閉店について、その実、なにも思っていないのではないかと思えてきた。確か前回、寂しいとかなんとか吐露したような気がしないでもないのだが…。
つまり、私はもう店に行くことはないだろう。すでに記憶があるからそれでいいなんてのは、都合のいいキレイごとでしかない。単純に、そういう理由が含まれている状態で行くのが(感情的に)面倒臭いのだ。
もっと大事な事柄、自分なりに達成感を得られる事柄は、外側ではなく内側に潜んでいる。
というのは、行かない理由としての建前じゃない。
並んで待っていれば必ず得られるのであれば、それがなによりもいい(楽だ)と私は思う。でも、人が本質的に欲する大半の「モノ」は、どうしたって一種の椅子取りゲームになる。
舌や胃が満たされるよりも、私が私を満たすための、決して「失わないモノ」はもっと濃厚で高級だと私は信じたい。
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