第45話 動機の不純物


 秋葉原にある「肉の万世」が三月末に閉店するという事実を知った。私も通称「肉ビル」には何度もお世話になっただけに(低階層止まりだったけど…)とても残念だなぁと、素直に寂しさを覚えた。



 私は秋葉原と呼ばれる地域が、電気の街からアニメ、ゲームの街へ、さらに観光地化(海外からの旅行者向け)へと変化していく流れを目の当たりにしてきた。


 いや、正直に言ってしまうと、私には人間的に空白の時期があって、その間は街へ行くことも、アニメ、ゲームに触れることもなかったのだが、(後者に関しては、いまもそうだと言えばそうだけど)それでも街が変化していく様子は知っていた。


「肉ビル」は常に象徴的にその場に建っていた。



 こういう話題を取り上げるとき、私はなんとなくネガティブな要素を含んでいて、それは変化への抵抗とか、寄る辺なさとか、どうしようもなさみたいな一種の感傷だと思っている。


 街が変わってしまうのが怖いのか? 居場所が失われるようで怖いのか? 


 そう自問してみたところで、結局私は街の変遷を理解したうえで、それでもいまも遊びに行っているのだから、常に変化に順応していったということなのだろう。(主観は「私」に向いている、ということでもある)



 そもそも、誰にもどこにも居場所なんて無い。というか、用意されちゃいない。作るべきものであり、むしろ居座ることでそう自覚させてしまうものだ。



 人ってのはどう足掻いても、何事にも途中から参加することしかできない。生まれること自体が、すでに世界に流れる時間の途中の出来事でしかない。


 世の中には私よりも先に街に触れていた人たちがいて、さらにその中には、街の風景をあらゆる方法で記録してきた人たちがいる。(とてもありがたいことです)


 私が最初に実感した秋葉原という地域への「変わってしまう」への抵抗、寄る辺なさがどの位置だったとしても、そのどうしようもなさの原初ですら、先人からすればそれまでに起こった変化からの、ほんのわずかな通過点でしかない。


 というふうに考えると、もっと大きく、私が日常で触れる、体感する悔しさや悲しさなんて、実はたいしたことじゃないような気さえしてくる。なんてのは、ちょいと言い過ぎだろうか。



 去年末、やっぱり私は友人と一緒に秋葉原に行こうと思ったけど、体調を崩してしまって、じゃあ年始にしようと計画を変更したら、また体調を崩した。


「じゃあ、二月になったら連絡を入れるよ。そこで改めて――」


 なんて言っておきながら、そろそろ二月が終わろうとしている。





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