第43話 震えない水準


 じゃあ大人だから、大人だったら余計なことは言わなくなるのかといったら、きっとそれも違う。「いまの世の中」であり、「こういう場」だからこそ、なにが、どれが「余計なこと」になり得るのかなんて不明瞭で難しい。


 いや「こういう場」と言っている時点で、私はどうなのかという問題に推移する。というか、私は私のことしか語れない。



 少し前に、私はアイドルと触れ合ってファンの一部になってみたが、結局雰囲気に馴染めずに離れたという話を書いた。


 ともすれば、あなたはアイドルをやっているかもしれないし、アイドルのファンをやっているかもしれない。


 だとすれば、ああいう話題はあなたへの否定になったのかもしれないし、それによって、私の言葉に目を向けることをやめる(拒否する)可能性だって出てくる。



 というその可能性を考えているのはいまの私だ。


 そのときの私は「その話題」によって、あなたが不快な思いをするかもしれない、傷付いてしまうかもしれないなんてことは、おそらく、きっと、多分、あまり、ロクに、……全然考えていない(はず)。



 チューちゃんが亡くなったのと同時期に、友人の愛猫も亡くなった。


 友人は私と同じように悲しみに打ちひしがれていたのだけど、友人の家族はそれから一週間も経たないうちに、新しい猫を迎え入れた。だから友人は激怒した。


 その話を聞いて、私は「そりゃないだろ」と友人に共感したのだが、でも「だから友人は――」の「だから」の意味がわからない人もいる。



 私の両親はルークとシェルが相次いで亡くなって、家にはもうチューちゃんしかいなくて寂しいといっていたその間に、すでにペットショップに出向いて、売り物(嫌な表現だが)だったミニチュアダックスフントに勝手にアリシアと名前を付けて、定期的に会いに行っていた。


 結果的にその子犬は、いま我が家の正式なアリシアになったのだが、当時私はアリシアが家にやってきて、両親が以前からペットショップに行って唾を付けていたという事実を聞いたとき、真っ先に、


「じゃあルークとシェルへの寂しさ、悲しさはどこへ行ったんだ」


 と、疑問と怒りを覚えた。



 物事は突き詰めれば是か非かで二極化する。あとはほんのりとそれぞれの視点や主張、思想が味付けされるだけだ。


 でもだからといって、否定される側の全員が悪を悪と理解して悪行するのかといったら、決してそうではない。


 私と友人、私の両親と友人の家族では、それぞれ「寂しさ」への対処方法が違っていた。

 

 そこに偏った、傾いた、誰もがそれと納得し得る正否や善悪はなく、どちらもが一様に「私としての正しさ」を主張していた、体現していた。ただそれだけだ。



 という言い訳をしておけば、おそらく今後もこの場で吐き出すだろう「私としての正しさ」が通用するのか。


 あなたが実感するかもしれない、あるいはもう実感したかもしれない私の言葉への不快さを拭ってしまえるのか。


 それはきっと、チョコミント論争みたいなものなのだろう。(絶対に違うだろ…)





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